★ ARNKAメール報第45号 2007.01.19
■2006年12月13日東京拉致国際会議でのジェンキンスさん証言ビデオの全訳■


 2006年12月13日に東京で開催された拉致問題国際会議に、チャールズ・ジェンキンスさんがビデオ参加をしました。
 同ビデオは、会議に先立つ12月8日に「救う会」全国協議会島田洋一副会長がインタビューして収録し、同国際会議で公開されたものです。
 本会は、ジェンキンスさんのビデオ証言(英語)の、日本語全訳を作成しました。
 (上記国際会議では抄訳のみを配布。)

 少々長くなりますが、以下に紹介いたします。

1.アノーチャー(タイ人拉致被害者)について

 私がアノーチャーから聞いたのは、まず、アノーチャーはタイでいい仕事がなかったためにマカオに行き、当時ポルトガル人が経営していた浴場で働いたということだ。
 そこで二ヶ月働き、そうしたら2−3人の者が数度訪れて、「一緒に外に写真を撮りに行かないか」と頼まれたということだ。
 彼らはもうすぐマカオを離れるところだと言い、店のポルトガル人のボスはアノーチャーに「彼らと一緒に行け」と言ったという。
 アノーチャーはその時、これはどこの国でも同じだろうが、ボスの命に従わないのはよくないと思って、行くと言った。それで彼らと一緒に出かけた。

 彼らとアノーチャーは日中海岸で写真を撮った。そして夕方に突然、この連中はアノーチャーを捕まえた。縛って、話ができないようにさるぐつわをはめた。そして注射を打ち、アノーチャーを外から見えない、どこかの背の高い草が茂っている場所に寝転ばせた。
 そして連中は車で去って行った。数時間後、車がまた帰ってきた。これはアノーチャーはどのぐらいの時間かは分からないといっていたが、多分1〜2時間ぐらいと思ったそうだ。
 それで私はちょっとよく覚えていないが、アノーチャーは確か、あと2人か3人の女性が、と言っていた。ちょっとはっきり覚えていないが、2人と言っていたと思う。

 それから連中はアノーチャーを担ぎ上げて運んで行き、そう高くない丘か山のようなところを越えて、農村の近くを通った。農村がとても近かったから、アノーチャーはさるぐつわをされているわけだがウーウーと声は出せるので連中はそれを恐れて、「もし少しでも声を出したら打ちのめして失神させるからな」と言ったという。
 とにかくその時、他の2人か3人の女性についてはわからないが、アノーチャーは連中の肩にかつがれて運ばれていったわけだ。

 連中はその後、女性たちを船に乗せた。船はあまり大きなものではなかった。そして船の下部に入れられたという。ここが彼女らの居場所だった。
 2〜3日船の上にいた。突然連中が船室に入ってきて、アノーチャーと他の女性たちに服を全部渡すように言ったという。彼らは服を甲板に持って行って洗ったという。そして翌日、船は到着した。アノーチャーは、船がどこに着いたのかは分からなかった。
 私は恐らく、清津ではなかったかと思う。

 連中は、そこからアノーチャーを平壌に連れて行き、ホテルに…いや、ホテルじゃない、招待所に連れて行った。北朝鮮ではそこを招待所と呼んでいる。朝鮮語で(不明)だ。
 ある日、当局は彼女らを庭に集めた。そして1人1人を選抜した。それでアノーチャーは私がいる部署に来ることになったのだ。アノーチャーは、私の部署に来るように選ばれたのはアノーチャー1人だけだったと言っていた。

 それから数日後、アノーチャーは….別のアメリカ人の、アリー・アレン・アブシャー[注・元米兵]。私は、アノーチャーはアブシャーを連れてモルドンボン(?)にやってきたのだと思った。

 このアブシャーだが、当局がアブシャーの家にやってきて、アブシャーに「これからアノーチャーと住め」と言ってきた。
 その時、アブシャーには朝鮮人の料理人がいた。アブシャーが私に言っていたのは、アブシャーは彼らに「嫌だ嫌だ、ここを離れたくない」と言った。アブシャーにはこれからどこに行くことになるのかも分からなかったし、当局は相手を「外国人だ」と言っただけで、アブシャーはアノーチャーに会ったこともなかったのだ。
 当局は「我々はお前のためにこうしているんだ」と言ったという。

 そんなことがあって、アブシャーはアノーチャーと一緒の家に移り住んだ。その家では2人には料理人がいた。
 これが、もうキムチを作り終えた時期だったから、私は9月か10月か11月頃のことだったと思う....11月の末か12月のはじめだったかも知れないな。

 この時期、私の住んでいた丘を下ったところに、ジェリー・ウェイン・パリッシュ[注・元米兵]が、レバノン人の妻であるシハーム[注・レバノン人拉致被害者]と一緒に住んでいた。
 一ヶ月ぐらい経ったら、当局はパリッシュとシハームを別のところに引っ越させて、アノーチャーとアブシャーを連れてきて私の近くに住まわせた。その時ひとみは入院していた。
 これが私とアノーチャーの出会いだ。アノーチャーは私たちと1989年まで一緒だった。9年、約9年間アノーチャーは私たちと住んだのだ。

2. アノーチャーの家族

 アノーチャーは自分の父、兄弟、非常に早く亡くなった母、それに、非常に若く亡くなった姉について話してくれた。アノーチャーは自分の家族は大家族だったが、今は自分と兄だけが生きていると話していた。

3.アノーチャーの夫

インタビューアー:「当局はこの件を、どういった理由でどのように扱っていると考えているか?」

 私にはどうしてか分かる。それは、当局はアノーチャーの夫を利用しているからだ。夫はよく外国に行っている。ヨーロッパ中を行っている。いつももう1人の工作員と一緒だ。
 当局は、私たちに彼らが何をしているのかを知られたくはなかった。
 アノーチャーの夫は出かけていくと….そう、1回に、1ヶ月ぐらいの間か、多分2週間から1ヶ月ほどの間行っていたと思う。当局は私たちに知られたくなかったのだ。
 それから当局はアノーチャーの夫にも、私たちがどんなにみすぼらしく住んでいるかを知られたくなかったのだ。

 それは….北朝鮮では….朝鮮労働党は….もし例えばあなたが朝鮮労働党に入ったら、それはそう悪いことではないが、生活はそう….あなたは制約を受けるのだ。あなたはどこへ行くこともできない。誰と話すこともできない。
 ただ、私と他の3、4人のアメリカ人は朝鮮人民軍に100%管理されていた。朝鮮労働党が私のあらゆることを支配し指図していたが、軍の管理下でも違いはなかった。あらゆることを支配されていたのだから。
 唯一違ったことと言えば…当局が私たちアメリカ人をマドンヒ大学へ英語を教えに行かせたことだ。しかし、女性たちは全くどこへも行かなかった。

 非常に時たま、アノーチャーとアノーチャーの夫は、どこかに教えに行くことがあった。アノーチャーは数日タイ語を教え、夫は英語を教えるのだ。しかしこれは非常に稀だった。

[注:上記のパラグラフの記述について、ビデオ収録後にARNKAからジェンキンスさんに問い合わせたところ、ここで言う「アノーチャーの夫」とは、最初の夫である元米兵ラリー・アブシャーである。
 アブシャー氏はジェンキンスさん及び他の2人の元米兵と共にマドンヒ大学で英語を教えたが、2人目の夫であるドイツ人は、どこかに教えに行くことは全くなかったという。
 また、アノーチャーさんがタイ語を教えたのは、アブシャー氏が健在であった1982年までの間で、場所は大学ではなく招待所で、外交官及び工作員に指導したそうである。しかし、同年の同氏死去後にはアノーチャーさんが教えに行くことはなかったそうである。
 なお、アノーチャーさんがドイツ人の夫と再婚したのは1989年。]

 もうひとつ、私たちが最後にアノーチャーに会ったときに彼女が話してくれたことだが…アノーチャーとドイツ人の夫、この2人が月に1度、夜にだけ外部に出て来ていた。

 私は、平壌商店とドル商店でたくさんの人に尋ねたのだが、アノーチャーがドル商店にやってきたというのは、よくはわからないがどうやら1度きりだったようだ。
 アノーチャーが(ドル商店に)来たらある者が、販売員のおばさんたち全員を事務室の中に入らせてしまうのだ。販売員のおばさんたちはみな、アノーチャーのことを知っていて、私たちのことも知っており、アノーチャーが以前私たちと一緒にいたことも知っていたから。

 (私がドル商店の販売員のおばさんみんなに尋ねたら)おばさんたちはアノーチャーが店に来た時見かけていて、(後で)私たちに「来ていたよ」とかと教えてくれた。

 北朝鮮では、私たちがアノーチャーの夫がドイツ人だということを知っているのを、当局はわかっていなかった。

 私たちが平壌商店で最後にアノーチャーに会った時に、アノーチャーは私の妻と話した。アノーチャーによれば、アノーチャーはその日、翌日結婚するのでパーマをかけに来ていたそうだ。

4.ドナ(ルーマニア人拉致被害者)について何かきいたことは?

インタビュアー:「ドナはあなたに母親について話したか?」
ジェンキンス: 「いや、それはあまりはなさなかった。」
インタビュアー:「では、父親については?」

 彼女の父は、軍隊を追い出されるまでルーマニア軍の大佐だった。
 彼女の父は……これは私が本に書いたかどうか忘れたが、かなり長い話だ。

 それである晩、彼女の父親、この人はある連隊の指令官だったのだが、ある晩大きなパーティーに出席した。彼女の父は将軍の妻とダンスをした。そして将軍の妻に「外に行こう。私は外に行くから、駐車場で会おう」と誘ったのだ。
 将軍の妻はドナの父を平手で打った。するとドナの父は彼女を打ち返したのだ!

 こんなことが起こって、ドナの父は当局によって軍事大学の教官にされた。学生たちは、連隊司令官が軍事大学の普通の教員に格下げになったとささやきあっていた。
 それで彼は、ルーマニア軍に解雇を願い出る手紙を書いた。「こんな風にはいられない、元の部隊に戻らなくてはならない」と書いたのだ。

 当局はこの願い出を受け入れて、ドナの父を解雇してしまった。ドナの父は当局が自分を元のポジションに戻すものと思っていた。解雇にするとは思わなかったのだ。
 これがドナが私たちに言っていたことだ。

 それで父親は、車を酒に酔って運転しながら共産党のスローガンを「ルーマニア共産党よ永遠なれ」とか「チャールズ・ヘルトンよ永遠なれ」とかと叫ぶまでした。
 そのおかげで父親は当局によって、2年間監獄に入れられた。ドナは2年間だったと言っていた。その後家に戻った。

 その時ドナはイタリア人と結婚していた。このイタリア人は資本家で、非常な金持ちだった。
 ドナはイタリアに行った。でも彼女は「イタリアでは誰も友達がいなかった」と私や妻や他のみんなに言っていた。
 ドナの夫は、彼女を家の外に行かせようとしなかった。どうしてなのかは私には言えないが、なぜかは分かっている。ドナはいつも……ドナの夫は彼女を離婚した。ドナが流産したからだ。休暇でルーマニアに帰ったとき、踊りに行って流産したのだ。
 それで夫は離婚して、ドナに10年間十分に暮らせる金を与えた。ドナはこの金をもらって、イタリアの有名な芸術大学に通った。卒業して芸術家になった。

5.シハーム(レバノン人拉致被害者)それに他の西洋人を見たか?

 シハームがスパイ訓練に行ったかどうかは私は知らない。シハームとそれにもう1人の女性はハイファと言う人だ….
パリッシュとドレスノク[注・元米兵]はずいぶん大変な目にあった。
 ドレスノクが先に行ったのだと思うが、シハームとハイファに会いに平壌に行った。パリッシュは後から行った。

 それからシハームとハイファの他にもう2人がいた。私たちはこの2人のどちらにも会ったことがなかった。
 私はシハームに次のように言われた。この2人のうちの1人は当局が私のために連れてきたのだと。でも私は「ヨーロッパ人と一緒にはならない」と言った。
 この女性は背がとても低かったが、容姿は非常によかった。この女性の兄弟はその時、レバノンの駐クウェート大使だったと思う。いつ北朝鮮に大使として赴任してきてもおかしくなかった。
 それで当局はこの女性を恐れて、1年と少しでこの2人を国外に追い出してしまった。それでこの2人は去っていった。
 2人がスパイ訓練に行ったかどうかは、私には分からない。

■『告白』(チャールズ・ジェンキンス著)を実費頒布しています■
[タイ国内のみ]

 本書のタイ人女性「アノーチェ」の詳細な記載から、拉致被害者アノーチャー・パンジョイさんの存在が明らかになりました。タイ人拉致の根本資料であることから、日本からの取り寄せ実費のみで頒布致します。  ぜひ本書を一読下さい。メールでお申込下さい。(ハードカバー:650バーツ。EMS送料無料)


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1.タイ人拉致被害者アノーチャー・パンジョイさん個人史
  (タイ語版・英語版・日本語版)
2.北朝鮮拉致問題に関するタイ外相インタビュー記事日本語訳[2006年2月]
3.タイ人拉致被害者実兄の思い
  [2006年4月ReACH/CHNK共催ワシントン拉致被害者救援コンサートで読まれた手紙]
  (タイ語版・英語版・日本語版)
4.タイ外務省ウェブサイトの北朝鮮紹介ページ日本語全訳
  [タイ-北朝鮮関係の基礎資料]
5.タイ−北朝鮮貿易額統計2001−2005年
  [タイは04年より北朝鮮の対外貿易高第3位](タイ語版・日本語版)
6.日本の北朝鮮人権法タイ語訳
7.タイ人拉致問題パンフレット[A4両面三つ折用](タイ語版・英語版・日本語版)
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代 表 海老原 智治 (Tomoharu EBIHARA)
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