★ 第一 「大日本帝国」 |
天照大神は、御孫ニニギノミコトに、三種の神器をお授けになって、「この日本国を治めよ。」と、仰せられました。 ニニギノミコトの御子孫の神武天皇は、悪者どもを御征伐になって、天皇の御位にお就きになりました。 これが、わが大日本帝国のはじめであります。 |
★ 第二 「大日本帝国」(続き) |
神武天皇から、引き続いて、御位にお就きになった御代々の天皇は、みな、その御子孫であります。 かように、万世一系の天皇をいただくことは、世界の国々に、たぐいのないことであります。 御代々の天皇は、臣民を子のように、思し召し、あつく、お恵みになりました。 我ら臣民は、このお恵みを忘れずに、我が大日本帝国のために、尽くさねばなりません。 |
★ 第三 「愛国」 |
昔、元の兵が、我が国に攻め入ろうとした時、我が国の武士は、勇ましい働きをして、とうとう敵を討ち退けました。 中にも、河野通有は、小さい船に乗って、大きな敵の船に近づき、帆柱を、はしごにして、その船に乗り移り、大将を虜にして、帰ってきました。 通有は、身を捨てて、我が国を守った人であります。 |
★ 第四 「忠君」 |
北条高時が、後醍醐天皇の仰せに従いませんでした。 天皇は、楠木正成をお召しになり、「高時を討て。」と、仰せられました。 正成は、「私の生きておる限りは、必ず、ご運の開けるように致しましょう。」と、お答えを申し上げました。 それから、わずかの兵をもって、たびたび、高時の大軍を打ち破りました。 そのうちに、天皇のお味方をするものができて、高時は、とうとう、滅ぼされました。 |
★ 第五 「忠君」(続き) |
その後、足利尊氏が謀叛して、大勢の兵を連れて、都の方へ、攻め上りました。 正成は、心の中で、このたびの戦には、とても、生きては帰れまいと思い、子の正行に向かい、「父が亡くなった後も、忠義の心を失うな。孝行の道は、これより他にはないぞ。」と、教えて、国に返しました。 そして、湊川で、大勢の敵と戦って、討ち死にしました。 正行は、父の討ち死にを聞き、悲しがって、腹を切ろうとしました。 正行の母は、その腕を押さえ、「お前は、父上の教えを忘れたのか。」と、言って聞かせました。 この後、正行は父母の教えを守り、立派な忠臣となりました。 |
★ 第六 「孝行」 |
お房は、家が貧しいため、八つの頃から、子守りなどに雇われて、暮らしを助けました。 また、父が草履や、草鞋を作るそばで、藁を打って、手伝いました。 十一の時から、奉公に出ましたが、主人からいただいたものは、父母に送りました。 かように、二親を大切にしたので、役所から、褒美をいただきました。 孝は、親を安んずるより、大なるは無し。 |
★ 第七 「兄弟、姉妹」 |
昔、兄弟二人で、田地を争って、役所に訴えたことがありました。 泉八右衛門という役人は、二人を自分の家に呼び、狭い部屋に、待たせておきました。 二人は、一緒に、一つの火鉢に当たって、待っていましたが、そのうちに、小さかった時、父母のそばで、仲良く、遊んだことを思い出し、今更、こんなに、争うのは悪いと、後悔して、仲直りをしました。 八右衛門は、二人の仲が、直ったのを見て、たいそう、喜びました。 |
★ 第八 「共同」 |
ある日、四、五人の子供が、年寄りの家に遊びに行きました。 年寄りは、三本の棒と、絵本とを出し、「この棒を立てて、その上に、絵本を乗せてごらん。」と、言いました。 子供は、色々、工夫したが、立ちません。 そのうちに、一人の子は、三本の棒を寄せて、真ん中をくくり、両端を開いて、立て、上に、絵本を乗せました。 そこで、年寄りは、「一本ずつでは、立たんが、三本一緒になると、良く立ちます。それは力を合わせるからである。」と、言って聞かせました。 兄弟や、友達は、力を合わせて、助け合わねばなりません。 |
★ 第九 「勤勉」 |
高田善右衛門という人は、十七の時、自分で働いて、家を興そうと、思い立ち、父に頼んで、わずかの金を借りました。 それを元手にして、灯芯と、傘とを、仕入れて、遠い所まで、商いに、出かけました。 善右衛門は、険しい山や、淋しい野原を越え、雨風の日にも休まず、長い間、精出して、働きましたので、たいそう、金を儲けました。 それから、その金で、呉服を仕入れて、売りました。 いつも、正直で、倹約で、商いに、勉強しましたから、たいそう、立派な商人になりました。 何事にも、骨を惜しまずに、働くと、立派な仕事が出来ます。 |
★ 第十 「時を重んぜよ」 |
ダゲッソーというフランス人は、規律の正しい人で、正午になると、すぐに、食堂に行きました。 折々、食事の用意が出来ておらず、待たせられることがありましたから、後には、筆と紙とを食堂に備えておき、待っている間に、考えついたことを書き記しておきました。 それが、積もり積もって、十年の内に、立派な本になりました。 これは、時を重んじたからであります。 時は金なり。 |
★ 第十一 「志を固くせよ」 |
イギリスのジェンナーは、植え疱瘡の仕方を発明した名高い人であります。 ある時、ふとしたことから、植え疱瘡の仕方を工夫しようと、思い立ちました。 人に笑われても、ちっとも、かまわずに、色々と、工夫を凝らし、23年もかかって、とうとう、その仕方を、発明しました。 この仕方を発明してからも、色々と、悪口を言われました。 それでも、志を変えずに、工夫を続けておりましたので、だんだん、世間に広まりました。 一旦、志したことは、必ず、し遂げるように、心がけねばなりません。 |
★ 第十二 「勇気」 |
昔、ギリシャに、ソクラテスという名高い人がありました。 戦に出た時、兵糧が、足らないことがあって、他の兵士は、皆、弱りましたが、ソクラテスは、堪えて、いつものように、働きました。 また、ある寒い朝、兵士は、皆、着物を重ねて、厚い毛皮を足に巻いて、出ましたが、ソクラテスは、いつものままで、出かけました。 この戦に、一人の仕官が、傷を受けて、倒れましたら、ソクラテスは、すぐに遠い所に連れて行って、介抱しました。 |
★ 第十三 「身体についての心得」 |
身体を丈夫にするには、運動するのが、大切であります。 着物は清潔にし、眠りや、食事は、規則正しくせねばなりません。 身体に、垢をつけておくのは、病気の元になります。 薄暗い所で、本を読むなどすると、目を痛めます。 我々は、身体を丈夫にして、強い日本人となろうではありませんか。 |
★ 第十四 「知識を磨け」 |
八幡太郎義家は、ある日、よそに行って、戦の話をしていました。 大江匡房という学者が、それを聞いて、「良い武者であるが、惜しいことには、戦の方を知らん。」と、独り言を言いました。 義家の共のものが、それを聞いていて、義家に告げました。 義家は、すぐに匡房に頼んで、戦の方を学びました。 その後、また、戦があって、義家が敵を攻めに行った時、遙か彼方の田へ、多くの雁が降りようとして、にわかに、列を乱して飛び去りました。 義家は、匡房から、教えられたことを、思いだし、「雁の列が乱れるのは、伏兵があるためであろう。」と、言って、兵士に、探させました。 果たして、大勢の敵が、隠れていました。 何事をするにも、知識を磨かなければなりません。 玉磨かざれば光無し、人学ばざれば知無し。 |
★ 第十五 「迷信を避けよ」 |
臆病な侍が、闇の晩に、淋しい道を通りました。 垣の上から、大頭の化け物が見えたので、驚いて、刀を抜いて、斬り付けました。 翌日、行って見ますと、ひょうたんが二つに切れていました。 ある所に、祈祷をする者がありました。 ある日、祈祷をして、みきどっくりの中へ、ごへいを差し込むと、ごへいが、動き出しました。 「これは、神が、ごへいに、乗り移った証である。」と、人々に告げていましたら、風のために、みきどっくりが、倒れて、中から、どじょうが、4,5匹、躍り出ました。 世間で、言いふらす怪しいことは、多くは、このたぐいであります。 |
★ 第十六 「礼儀」 |
人は、礼儀を守らねばなりません。 礼儀を守らないと、人に卑しまれます。 人には、言葉遣いを丁寧にし、また、行儀を良くせねばなりません。 人から手紙を受けて、返事のいる時は、速やかに、返事をせねばなりません。 人と親しくなると、礼儀を忘れるように、なりやすいが、親しい仲でも、礼儀を守らないと、長く、仲良く、付き合うことが出来ません。 親しき仲にも、礼儀あり。 |
★ 第十七 「人の名誉を重んぜよ」 |
この若者は、人の悪口を言うことを好み、良い人にも、色々のあだ名を付けて、あざけりました。 それがため、村の人に、憎まれ、とうとう、その村に住んでいることが出来なくなりました。 人を悪く言えば、人から憎まれます。 すべて、人の名誉を傷つけるようなことをしてはなりません。 |
★ 第十八 「博愛」 |
水夫虎吉らは、暴風にふき流され、2ヶ月ばかりも、海の中に漂っていました。 そのうち、貯えの食物もなくなり、たいそう、難儀をしました。 やがて、アメリカの鯨を捕る船に、出会いましたが、船長は、親切に、虎吉らを労り、アメリカから、香港へ通う船に、頼んで、香港まで、送ってくれました。 香港には、日本人で、仕立屋を業としている者がおり、親切に、世話をして、フランスの船に頼んで、清国の港まで、送ってくれました。 それから、船に乗って、日本に帰ることが出来ました。 外国の船が、ふき流されて、我が国に着いたことも、たびたび、ありましたが、我が国でも、これに食物を与えて、無難に、帰れるように、世話をしました。 こういう事をするのが、博愛の道であります。 |
★ 第十九 「公益」 |
京都の西に、大堰川という川があります。 流れも平らかでなく、川の中に、多くの岩があって、舟を通わすことが出来ませんでした。 三百年ほど前に、角倉了以という人が、初めて、この川を開いて、舟の通うようにしました。 これには、色々と、工夫して、し遂げたのであります。 その後、了以は、また、富士川の川ざらえを言いつけられ、それをもし遂げました。 また京都の賀茂川に沿って、高瀬川という川を掘り割ったので、それで、大阪と京都との運送の便利が、良くなりました。 これらは、全て、公益を、図ったのであります。 |
★ 第二十 「兵役」 |
我が国の男子は、満十七歳から、満四十歳まで、国のために、兵役に就く義務があります。 それゆえ、我らは小さい時から、気をつけて、行いを慎み、身体を丈夫にしておいて、兵役に就き、国民の義務を尽くさねばなりません。 |
★ 第二十一 「納税」 |
我が国には、たくさんの兵士があって、国を守っています。 また、多くの役所があって、人民のためを図ったり、悪い者を罰したりして、色々の政治を行っております。 また、たくさんの学校があって、国民に大切な学問を教えております。 国民は、これらの費用に充てるために、租税を納める義務があります。 租税を納めるについては、偽りを申し立てたり、期限に遅れたりしては、なりません。 |
★ 第二十二 「教育」 |
我が国を盛んにするには、国民一人一人が良い人にならねばなりません。 それには、皆が、教育を受けて、徳を修め、知を磨くのが大切であります。 我が国民は、満六歳になると、尋常小学校に入って、教育を受けねばなりません。 |
★ 第二十三 「議員選挙」 |
市には市会、町には町会、村には村会があって、その市町村の公の事柄を評議します。 その議員は、皆、市町村の公民が、公民の中から、選挙した者であります。 選挙をするには、市町村のためを良く考えて、良い人を選挙せねばなりません。 議員に選挙されたら、市町村のためを考えて、十分に、その務めを尽くさねばなりません。 |
★ 第二十四 「法令を重んぜよ」 |
幕府の重い役人に、松平定信という人がありました。 ある年、京都へ上る道で、笠をかぶったまま、箱根の関所を通ろうとしました。 関所の役人は、声をかけて、「規則によって、笠をお取り下さい。」と、言いました。 定信はこれを聞くと、すぐに、笠を取って、通りました。 やがて、使いをその役人のもとにやって、「先程、笠をかぶったまま、関所を通ろうとしたのは、我が不注意で、まことに、悪かった。関所の規則を曲げずに、良く、咎めてくれた。感心なことだ。」と、褒めました。 法令を重んぜねばなりません。 |
★ 第二十五 「人は万物の長」 |
人は万物の長と申します。 そのわけは、草や木は、自由に、動くことも出来ず、魚や鳥や獣は、動くことが出来ても、人のような知識がありません。 また、人には良心があって、良し悪しをわきまえ、悪いことをしようと思うと、良心が咎めます。 また、人は、世のため、人のために、なることをするのが、務めだと知っています。 それゆえ、人は万物の長と申すのであります。 万物の長と生まれた者は、徳を修め、知を磨き、人の人たる道を尽くさねばなりません。 |
★ 第二十六 「男の務めと女の務め」 |
男は、家の主人となって、家業を務め、女は、男を助けて、家の世話をするものであります。 男の務めと、女の務めとには、かように、違う所がありますから、その心がけも、違わねばなりません。 修身の心得は、男も女も守らねばなりません。 男は活発で、女は優しくなければなりません。 礼儀作法は、男にも、女にも、大切であります。 知識は、男にも、女にも、大切でありますから、おのおの、その務めを尽くすために、必要な知識を磨かねばなりません。 女を男よりも劣っているものだと思うのは、間違いであります。 ただ、男の務めと、女の務めとは、違うことを思って、銘々、その本分を忘れないようにせねばなりません。 |
★ 第二十七 「良い日本人」 |
神武天皇が、お位にお就きになってから、今日まで、二千五百余年になります。 その間、御代々の天皇は、臣民を子のように恵み給い、臣民も、また、皇室の栄えるように願いました。 我らも、良い日本人となって、皇室を敬い、我が大日本帝国を守らねばなりません。 我らは、父母に孝行を尽くし、兄弟の間は、仲良くし、親類と親しみ、召使いを憐れまねばなりません。 我らは、常に、学問を励み、知識を磨き、迷信を避け、身体を丈夫にし、勇気を養い、志を固くして、忍耐の習慣を作らねばなりません。 また、正直で、約束を守り、時を無駄にせず、勤勉で、倹約で、友達には、信義を尽くし、自分のことを誇らず、人の過ちは、許し、自分は、過ちをしないように気をつけ、人の名誉を重んじ、人には、親切を尽くし、人に交わるには、礼儀を失わないようにせねばなりません。 また、人と力を合わせ、近所の人と親しみ、広く、人を愛し、また、世のため、人のために、有益な仕事をせねばなりません。 その上、公民としては、公民の心得を守り、国民としては、国民の心得を守らねばなりません。 常に、これらの心得を守ると、明治23年10月30日に、下された勅語の御趣意に、従い奉ることになります |
2006年12月2日更新