★ 第一 「天皇陛下」
明治二十七、八年戦役の時、天皇陛下は、八ヶ月の間、広島にあらせられて、戦の御指図をあそばされたり。

この時の御座所は粗末なる西洋作りの一間のみなれば、あまりに、ご不自由なるべしとて、宮内省よりも、内閣よりも、御建て増しのことを、たびたび、申し上げしが、陛下は「今日の場合、これほどの不自由、何かあらん。」と仰せられて、御許しあらせられざりき。

また、早朝より御寝なるまで、御軍服を脱がせ給わず、御指図をあそばされ、その御いそがわしさは、まことに、おそれ多きことなりき。

天皇陛下は、かかる御不自由を忍ばせたまいて、御勉強あらせられ、ひたすら、国威の盛んならんことをはかりたまえり。

我等臣民たる者、謹んで、その御徳の高きを仰ぎ奉るべきなり。

★ 第二 「北白川宮能久親王」
明治二十七、八年戦役により、台湾は、我が国の領地となりしが、その地にありし清国の将士は土民を集めて、我が国に手向かいたり。

天皇陛下は、近衛師団長北白川宮能久親王をして、これを征伐せしめたまえり。

台湾は気候熱くして、土地も不便なれば、進軍の困難ひとかたならざりしが、親王は、常に、兵士と難儀をともにして、進みたまえり。

五ヶ月ばかりの後、北の方は、ほぼ、平ぎしが、なお、南の方の賊を討たんとて、進みたまい、途中にて、病にかかりたまえり。

この時、軍医等は、留まりて御養生あそばされたきよし申し上げたり。

されど、親王は「一身のゆえを以て、国家の大事をなおざりにするに忍びず。」と仰せられ、病をつとめて、進みたまいしが、御病、次第に、重りて、ついに薨じたまいき。

親王が、かく、一身を捧げて、国家のために、尽くしたまいしは、まことに、ありがたき御ことと言うべし。

★ 第三 「身を立てよ」
豊臣秀吉は尾張の貧しき家に生まれたり。

幼き時より、世に優れたる功名をなさんと志し、十六歳の時、わずかの金を持ち、ただ一人、故郷を立ち出で、遠江の松下加兵衛という武士に仕えたり。

かくて、よく、主人のために、働きしかば、加兵衛に信用せられ、着物や道具の出し入れをする役を言いつけられたり。

されども、仲間の者にそねまれ、やがて、故郷に帰れり。

その後、秀吉は織田信長の武勇優れたるを慕い、人を頼みて、これに、仕えたり。

これ、秀吉が身を立つる基なりき。

★ 第四 「職務に勉励せよ」
秀吉は、信長に仕えし後も、人に優れて、働きたり。

信長、ある日、明け方より、狩りに出でんとして、「誰かある。」と呼びしに、秀吉は「藤吉郎、これにあり。」と答えて、立ち出でたり。

ある年、清洲の城の塀、百間ばかりも、崩れしことあり。

信長、部下の者に言いつけて、これを普請せしめしに、二十日ばかりをすぐれども、工事はかどらず、よって、改めて、秀吉にその役を命じたり。

秀吉は人夫を十組に分かち、組組に工事を割り当てて、急ししかば、翌日になりて、残らず、出来上がりたり。

秀吉は、常に、かく、職務に勉励せしかば、信長の信用を得て、次第に、重く用いらるるに至れり。

★ 第五 「皇室を尊べ」
秀吉は、おいおいに、立身して、関白、太政大臣となれり。

これより先、国内、戦乱うち続きて、皇室、大いに、衰えたり。

秀吉これを嘆きて、皇室のために、尽くししこと少なからざりき。

秀吉は、京都に聚楽の第をつくりて、これに、おりしが、あるとき、後陽成天皇の臨幸を仰ぎたてまつりたり。

かかる臨幸の儀式は、久しく、絶えたりしことなれば、人々、遠近より来たりて、拝観し、中には、「はからずも、かかる太平の有様を見る事よ。」とて、大いに、喜びたる者ありき。

秀吉は、諸臣一同に、皇室を尊ばしめんと思い、御前において、これを誓わしめたりき。

★ 第六 「進取の気性」
秀吉は、かねてより、国威を海外に輝かさんと思いいたりしが、国内多事のため、その志を果たすことあたわざりき。

国内平定するにおよび、明国を征伐することとなり、朝鮮をして、先導をなさしめんとしたれども、朝鮮は明国を恐れて、応ぜざりき。

よって、秀吉、大軍をつかわして、まず、朝鮮に攻め入らせたり。

明国、大軍を送りて、朝鮮を助けしかど、しばしば、我が軍のために破られ、大いに、恐れて、和睦をなさんとせり。

秀吉、数カ条の約束を定めて、これを許さんとせしに、明の使い、我が国に至り、さきの約束に違いて、秀吉を日本国王となさんとするむねを告げしかば、秀吉、大いに怒りて、その使いを追い返し、再び、大軍を興して、朝鮮に攻め入らせたり。

この役、前後七年にわたりしが、戦争の未だ終わらざるに、秀吉、病にかかりて没せり。

秀吉のごときは進取の気性に富みたる人と言うべし。

★ 第七 「正直は成功の基」
昔、ある学者の塾に、一人の老いたる僕有り。

この塾に通学する多くの書生の中にて、この僕が、良き人にならんと見込みし書生は、多くは、成功せしかば、人々、その見込みの誤らざるに感じたり。

ある日、塾長は、この僕を呼びて、「汝は、いかにして、書生を見わくるか。」と尋ねしに、僕は「別に、難しきわけもなし。ただ、借りたるものを、間違いなく、返す人は、後、必ず、成功するなり。にわか雨のおり、塾より下駄や傘を借りて家に帰り、翌日、持ち来たりて返しし人には、その業を成し遂げたるもの多し。」と答えたり。

借りたる下駄、傘を返すがごときは、ささいなることなれども、常々、かかる心がけある人は、何事につきても、正直にて、その業の進むことも早く、人にも信用せられて、立身するなり。

★ 第八 「仁と勇」
加藤清正は仁と勇とを兼ねたる大将なり。

秀吉の朝鮮征伐の時、清正、先手の大将として、朝鮮に攻め入りたり。

会寧府の城にあるもの、二人の王子を縛りて、清正に降参せしとき、清正はその縄を解きて、あつく、これを労れり。

明国のもの、清正の武勇を聞きて、大いに、恐れ、使いを使わして、清正に説きけるは、「明国の皇帝、四十万の大兵をいだして、すでに、日本軍をほろぼしたれば、汝も、二人の王子を送り返して、国に帰れ。しからずば、汝が軍を打ち破らん。」と。

しかるに、清正は「汝が国の大軍きたらんには、われ、これを皆殺しにし、かの二王子のごとく、汝が国の皇帝をもとらえん。」と、少しも、恐れず、答えたりとぞ。

★ 第九 「義侠心」
清正は、また、義侠心に富みたり。

秀吉の二度目の朝鮮征伐の時、浅野幸長、蔚山の城にありしが、明国の大兵に攻められて、甚だ、危かりしかば、使いを清正のもとにつかわして、救いをこわしむ。

清正これを聞き、「われ日本国を発せしとき、幸長の父長政、われに、くれぐれも、幸長のことをたのみたり。今、もし、幸長を救わずば、われ、何の面目ありて、長政にあわんや。」と、直ちに、部下のものを率いて、蔚山の城に入り、幸長を助けたりき。

格言
義を見てせざるは、勇なきなり。

★ 第十 「誠実」
清正は、また、誠実なる人なりき。

石田三成の讒言によりて、秀吉の怒をうけいたりしが、ある夜、伏見に大地震ありしとき、秀吉の身を気遣い、直ちに、部下のものを率いて、秀吉の城に駆けつけ、夜のあくるまで、その門を守りたり。

これより、秀吉の怒りとけ、その無実なること、明らかになれり。

秀吉没せし後、その子秀頼、幼かりしかば、徳川家康の勢い盛んになり、豊臣氏の恩を受けしものも、次第に、家康につき従いて、秀頼を顧みるもの少なかりき。

されど、清正は、常に、良く、秀頼に仕え、大阪を過ぎれば、必ず、秀頼の安否を訪ねたり。

ある時、秀頼、京都に至りて、家康に会えり。

この時、清正は秀頼の身を気遣い、自ら、付き添いて、しばしの間も、そのそばを離れず、さて無事に帰りし後、「今日、いささか、太閤の恩に報いることを得たり。」と言いきとぞ。

★ 第十一 「志を固くせよ」
上杉鷹山は秋月家より出で、上杉家を継ぎて、米沢藩主となり、心を政治に用いて、賢君の誉れ有りし人なり。

鷹山の、藩主となりし頃は、上杉家の借財、はなはだ、多く、いかにも、困難の有様なりしが、鷹山は、このままにて、家の滅ぶるを待つべきにあらずと思い、倹約をもととして、家を立てなおさんと志したり。

されど、藩士の中には、鷹山に服せずして、「鷹山は小藩に育ちたれば、大藩のふりあいを知らず。」など言いて、そしる者もありしが、鷹山は、少しも、その志を動かすことなかりき。

格言
精神、一度、到らば、何事か、成さざらん。

★ 第十二 「倹約」
鷹山は令を出して、倹約を進めしが、自ら、まず、これを実行せんとて、大いに、その衣食の料などを減じたり。

鷹山の側役のものの父、ある時、田舎に行きて、親しき人の家に泊まり、風呂に入らんとして、着物を脱ぎしが、粗末なる木綿の襦袢のみは、丁寧に、屏風にかけおきたり。

主人、あやしみて、そのわけを尋ねしに、「この襦袢は藩主のお召し下げにて、わが子がたまわりしを、さらに、もらいしものなり。それゆえ、丁寧に、取り扱うなり。」と答えたり。

主人はこれを聞きて、深く、鷹山の倹約に感じ、その襦袢を示して、家内の人々を戒めたり。

格言
塵も積もれば山となる。

★ 第十三 「産業を興せ」
鷹山は産業を興さんとて、新たに、荒れ地を開きて、農業を営まんとする者には、家作料、種籾などを与え、三年の間、租税を免じたり。

また、村々に馬を飼わせ、馬市を開きなどして、農業の助けとしたり。

鷹山は、また、養蚕をも進めしかど、初めの間は、桑を植えることあたわざるもの多かりしかば、我が衣食の料の中より、年々、五十両ずつを出し、その中にて、桑の苗木を買い上げて、分かち与え、また、新たに、桑畑を開く者には、金を貸して、その業を励ましたり。

その上、奥向きにて、蚕を飼い、女中に絹を織らせなどしたり。

鷹山は、また、女子にも職業を与えんとて、越後より機織りに巧みなるものを雇い入れて、その法を教えしめたり。

これ、世に名高き米沢織りの初めなり。

★ 第十四 「孝行」
鷹山は孝行の心深き人なりき。

常に、父重定のもとに行きて、その安否を尋ね、重定の没するまで、少しも、怠ることなかりき。

重定、能楽を好むこと、はなはだしかりしかば、鷹山、自ら、父の前にてこれを稽古し、父の心を慰めたり。

また、江戸にありしとき、能楽に巧みなる者を、はるばる、米沢まで使わして、父を慰めしこともありき。

ある時、重定は、その屋敷の庭を広げて、面白く、造らんと思いしが、上下、ともに、倹約を守るおりからとて、遠慮して、見合わせしを、鷹山は「御老年のお慰み、これにますものなかるべし。」とて、人夫を使わして、父の心のままに、造らしめたりき。

★ 第十五 「礼儀」
人は礼儀を重んぜざるべからず。

常に、身なりを、良く、整え、食事の時、不作法に流れず、室の出入り、戸、障子の開け閉てなどを荒々しくすべからず。

また、汽車、汽船などに乗りたる時、無礼なる振る舞いや、卑しき言葉遣いをなし、集会場、停車場、渡し場、その他、人の込み合う場所にて、人を押しのけて、進むなど、すべて、人の迷惑を顧みぬは、いずれも、悪しき行なり。

★ 第十六 「習慣」
立派なる行を成せば、人に尊ばれ、悪しき行を成せば、人に卑しまる。

これ、良き習慣をつくると、つくらざるとによる。

されば、常に、心を用いて、良き習慣をつくることを努むべし。

世には、酒のために、健康を損ない、身を滅ぼすにいたるものあり。

これ、多くは、はじめより、酒をたしなむにあらざれども、知らず知らず、飲み習いて、ついには、やむることあたわざるにいたれるなり。

規律を破り、怠惰に流るるも、多くは、この類なり。

されば、平生より、悪しき習慣をつくらざるように心がけるべし。

少年の時には、その性質、良きにも、悪しきにも、動かされ易きものなれば、ことに、良き習慣をつくり、悪しき習慣をさくべし。

格言
習慣は第二の天性。

★ 第十七 「良き習慣を作る工夫」
良き習慣をつくらんがためには、常に、自ら省みて、悪しき行を避け、良き行いを成すべし。

瀧鶴臺の妻、ある日、袂より赤き手毬を落としたり。

鶴臺あやしみて、たずねしに、妻は顔を赤らめて、言うよう、「われ愚かにして、過ちをなし、後に悔いること多し。されば、これを少なくせんと思い、赤き手毬と白き手毬とを袂に入れ置き、悪しき心起これば、赤き手毬に赤糸を巻き添え、良き心起これば、白き手毬に白糸を添えたり。そのはじめ、1,2年の間は、赤き方のみ、大きくなりしが、今は、二つとも、同じほどの大きさとなりたり。されど、なお、白き方の、赤き方より、大きくならざることを、恥ずかしく、思う。」と言いて、また、一つの白き手毬を出して、鶴臺に示したりとぞ。

★ 第十八 「自立自営」
フランクリンは北アメリカの人にして、自立自営の心に富みたりき。

その家、貧しくて、兄弟多かりしかば、十歳の時、学校を退き、家業の手助けを成したり。

されど、学問を好む心深く、小使銭を蓄えて、書物を買い、少しの暇にも、これを読みたり。

十二歳の時、兄の家に行きて、印刷業の職工となり、良く、働きて、やがて、一人前の仕事を成すにいたれり。

その間にも、暇あれば、書物を読むことを怠らざりき。

十六歳の時、兄の家を出でしが、生活の費用を倹約し、書物を買い、時を惜しみて、これを読みたり。

されば、よく、その職業を励みし間にも、学問を成すことを得たり。

格言
困難は最良の教師。

★ 第十九 「規律正しくあれ」
フランクリンは規律正しき生活を成すがために、時間割を定めて、これを守れり。

朝は、五時に起き、それより八時までの間に、顔を洗い、その日に成すべき仕事を考え、次に、学問を成し、朝飯を食す。

八時より正午までは、労働を成し、正午より午後二時までの間に、読み物、または、勘定を成し、昼飯を食す。

二時より六時までは、再び、労働を成し、六時より夜にかけて、物事を整頓し、夕飯を食し、音楽、遊戯、または、談話などに時を移し、その日に行いしことを調べ、十時より翌朝5時まで、眠ることとしたり。

かくのごとくにして、フランクリンは、規律正しき習慣をつくりたりき。

★ 第二十 「公益」
フランクリンは、その住みいたるフィラデルフィア市中の人々と相談し、金を出し合いて、図書館を建て、大いに、公衆の便益をはかりたり。

その後、また、日常の教えとなるべき格言を書き加えたる暦を発行せしかば、家に一冊の書物を有せざるものも、これによりて、有益なる事柄を知るを得たり。

フランクリンは、また、新聞紙を発行したり。

その頃の新聞紙には、人の名誉を傷つけるがごときことを載せるもの多かりしが、フランクリンが発行せし新聞紙は、少しも、さることなく、世を益することのみを載せたり。

★ 第二十一 「公益」(続き)
その頃は、消防の法、なお、いまだ、備わらず、火事あるごとに、多くの家焼けて、損害、おびただしかりき。

フランクリンは有志のもの三十人と相談して、消防組を作り、フィラデルフィア市中の人々に、大いなる利益を与えたり。

また、市中の道路、はなはだ、悪しくて、通行に不便なりしかば、フランクリンはこれを改良する方法を考え、また、街灯を、家々の前に、立てることをもすすめたれば、通行人は、これがために、大いなる便利を得たり。

フランクリンは、これのみならず、金を集めて、学校を建てるなど、常に、市民の利益をはかれり。

★ 第二十二 「勤労」
人、ややもすれば、勤労をいといて怠惰に流れることあれども、これ心得違いなり。

人、もし、何事をも成さずして、怠け暮らす時は、身体も弱くなり、心も楽しからざるべし。

また、立派なる仕事は、勤労によらざれば、成し遂げるべからず。

人は、生涯、勤労をいとうべからず。

まして、これより、志を立て身をおこさんとするものは、早くより、勤労の習慣をつくるべし。

格言
勤労、門を出れば、貧苦、窓より入る。

★ 第二十三 「忍耐」
コロンブスはイタリアの人にて、十四歳の頃より、船乗りとなりたり。

ある時、思いけるよう、地球は水と陸とよりなりて、その形、たまのごときものなれば、東より西に向かいて、まっすぐに、進み行けば、ついには、これを一巡りすべしと。

かく、考えたれども、これを実行せん資金なきに苦しみしが、後、イスパニアの皇后イサベラの助けを得、三艘の船を以て、イスパニアを出帆せり。

かくて、大西洋を、西へ西へと、進めども、陸地の影だに見えざれば、水夫は、大いに、恐れて、引き返さんことを迫り、コロンブスの聞かざるを見て、ついには、海中に沈めんとはかりしものさえあるにいたれり。

されども、コロンブスは、忍耐の心強く、水夫を、ある日は、慰め、ある日は、励まし、七十日の後、ついに、新しき島を発見したりき。

これ、すなわち、今のサン・サルバドル島なり。

これより、ヨーロッパ人は、大西洋の向こうに、新陸地あることを知り、やがて、アメリカ大陸をも発見するにいたれり。

★ 第二十四 「生き物を憐れめ」
ナイチンゲールはイギリスの婦人にて、幼き時より、憐れみの心深かりき。

ある時、犬が足を傷めて、苦しめるを見て、傷口を洗いやり、明くる日も、また、手当を成しやりたり。

かくて二、三日の内に、はや、犬の傷癒えたり。

その後、ナイチンゲール、牧場に出でしに、犬は足下にとびきたり、懐かしそうに、足をのべ、尾を振りて、礼を言うがごとき様を成したりとぞ。

すべて、生き物は、これを憐れみ、その苦しめるを見ては救いやるべし。

★ 第二十五 「親切」
ナイチンゲールは、犬をも憐れむほどなれば、わけて、親の無き子や、貧しき人を憐れみて、助けたること多し。

また、頼り無き人にて、病めるものあれば、遠き所にても、行きて、これを慰め、力の及ぶ限り、介抱せり。

また、我が家に近き鉱山の役夫の怪我せるを聞くごとに、これを見舞いて、いたわりしかば、彼らは、深く、その親切を喜びたりとぞ。

ナイチンゲールは、暇あるごとに、貧民学校、病院、監獄などを見回りて、改良の道を考え、ことに、その頃の看護婦が、患者を、むごく、取り扱う風あるを見て、これを改めたしと思いいたり。

その後、父母共に、フランス、イタリアなどの諸国をめぐり、またドイツに行き、看護婦学校に入りて、勉強し、さらに、フランスに行き、名高き病院にて、実地の研究を成し、本国に帰りて後、救済院と看護婦学校とを監督しいたり。

★ 第二十六 「博愛」
その頃、イギリス、フランス、トルコの三国とロシアとの間に、クリミア戦争という激しき戦争起こりたり。

その戦争の激しかりしと、流行病の盛んなりしとのため、イギリス、フランスの軍中には、病兵と負傷兵との数、おびただしかりしかど、遠く、本国とへだたりたる戦地のこととて、医師も乏しく、看護人も少なく、従軍の兵士は、いずれも、非常の難儀にあいたり。

ナイチンゲールはこれを聞き、三十四人の婦人を率い、海を渡りて、戦地に向かい、力を尽くして、看護に従事したり。

戦をはりて後、本国に帰りしが、女皇はナイチンゲールに謁見をたまいて、その功を褒め給い、人民も、また、その功に感ぜぬものなかりき。

ナイチンゲールのごときは、まことに、博愛の心深き人というべきなり。

★ 第二十七 「祝日祭日」
我が国の祝日は、新年、紀元節、天長節にて、これを三大節という。

新年は年の始まりを祝い、紀元節は二月十一日にて、我が帝国の紀元を祝い、天長節は十一月三日にて、天皇陛下の生まれたまいしを祝うなり。

祭日は一月三日の元始祭、一月三十日の孝明天皇祭、春分の春期皇霊祭、十月十七日の神嘗祭、十一月二十三日の新嘗祭なり。

これ等の祝日、祭日は、いずれも、我が国にとりて、大切なる日にて、宮中にては、天皇陛下、自ら、御儀式を行わせたまう。

★ 第二十八 「復習」
人の一生を木に例えれば、少年はその苗のごとし。

苗のときに曲がらぬようにし、その曲がれる時、これをためおかざれば、長じて後、よき木材とはならざるべし。

人も、少年の時に、よく、学びて、身を修めおかざれば、成長の後、良き人となりがたし。

良き日本人とならんとするものは、天皇陛下を尊び奉りて、我が国を愛すべし。

職務に勉励することは、秀吉のごとくせよ、誠実にして、義を重んずることは、清正のごとくなれ。

鷹山は倹約を守りて、産業を興し、フランクリンは、よく、勤労し、よく、公益をはかりたり。

ナイチンゲールは生き物を憐れみ、人に親切を尽くしたり。

良き日本人とならんとするものは、これ等の人々の行いに鑑み、学校にて授けられたる色々の教えを身に行うように心がけるべし。

我等の守るべき道多けれども、その中にて、深く、心得おくべきことは、正直なること、人のためを思うこと、喜んで良き行いを成すこと、行儀を良くすることなり。

我等、教育を受けたる者は、良く、これ等の心得を守らざるべからず。

2006年12月3日更新