★ 第一 「家庭」
家内のもの、各々、その務めを尽くし、互いに、その身を慎む時は、一家の内むつましくして、その楽大なり。

家庭にては、よく、父母、祖父母を敬い、その命にさからうことなく、その仕事を手伝い、兄弟姉妹と仲良くし、下女下男を労るべし。

家内のもの、むつましく、暮らす時は、一家の幸福をきたすのみならず、国の幸福の基となるべし。

格言
笑う門には、福来たる。

★ 第二 「主人と召使」
中江藤樹は近江の小川村の人なり。

はじめ、伊予の加藤氏につかえしが、故郷にある母を養わんがため、つかえをやめて帰れり。

この時、伊予より、一人の召使い従いきたれり。

されど、藤樹は家貧しければ、これを雇いおくことあたわず、よって、わがもてるわずかの銭の中より、その過半を分かち与え、「故郷に帰り、商をなして、生計をたつべし。」といえり。

召使いは「主人の仰せは、まことに、うれしけれども、われは金銭を受けんとは思わず、ただ、いつまでも、仕えて、艱難をともにせんことを願う。」と答えたり。

藤樹は、その志をあわれとは思いしが、せんかたなく、あつく、これをさとしたれば、召使いも涙を流して、帰りゆけり。

★ 第三 「徳行」
藤樹は母に孝行を尽くし、また、学問をはげみ、ついに、名高き学者となり、多くの弟子はもとより、文字を知らざるものまでも、藤樹を慕うにいたり、人、みな近江聖人ととなえたり。

今に至るまで、村民その徳を仰ぎ、年々の祭りをたやさず。

ある年、一人の武士、小川村をすぎ、藤樹の墓をたずねんとて、畑を耕せる農夫に、道を尋ねたり。

農夫はさきだちて、案内せしが、途中にて、我が家に立ち寄り、衣服をあらため、羽織を着て、行きたり。

武士は、心の内に、我を敬うがために、かくするならんと思いしが、藤樹の墓にいたれば、かの農夫、垣の戸をひらきて、武士をその中に入らしめ、おのれは戸の外にひざまづきて拝したり。

武士この様を見て、さきに、農夫の衣服をあらためしは、藤樹を敬うがためなりしことをさとり、深く、感じ、ねんごろに、その墓を拝して、去りたりとぞ。

★ 第四 「朋友」
朋友は、平生、親しく、交わりて、互いに、助け合うべきものなれば、尊きものともいうべく、人にして、良き朋友なきは、まことに、あわれむべきことなり。

諺に、「朱に交われば、赤くなる。」といえり。

平生、良き人と交わる時は、知らず知らず、良き人となり、悪しき人と交わる時は、自ずから、悪しき人となる。

されば、朋友を選ぶこと大切なり。

人は、互いに、信義を重んぜざるべからず。

まして、朋友の間においてをや。

我が利害のために、朋友に対し、信義を破るがごときは、甚だ、悪しき事なり。

朋友の不幸にあえるを見ては、これを助くべく、また、平日にありても、悪しき行いや心得違いあらば、忠告して、これを改めしむべし。

格言
水は方円の器に従い、人は善悪の友による。

★ 第五 「度量」
昔、シナ、趙の国に蘭相如という人あり。

秦の国に使して、功ありしかば、重く用いられたり。

趙の大将廉頗これを憤り、「蘭相如は、もと、賤しき身分のものなるに、ただ、弁舌をもって、位、我より上にあり。我は戦争に出でて、大功を立てながら、彼の下にあるこそ、恥ずかしけれ。いつかは、彼を辱めやらん。」と、言いいたり。

蘭相如は度量大いなる人なりしかば、これを聞きて、廉頗と争うことを避け、途中にて会う時も、隠れるようにしたり。

従者そのわけを問いしに、蘭相如は「秦の我が国を侵さざるは、我と廉頗とあるがためなり。しかるに、今、もし、争わば、二人、いずれか、力を失い、ついには、我が国も秦に滅ぼさるるにいたらん。我の、廉頗を避くるは、公の事をさきにして、私の事を後にするがためなり。」と答えたり。

廉頗は、これを聞きて、大いに、恥じ、蘭相如の家にいたりて、おのれの不心得を詫び、これより、互いに、心を合わせて、事をはかりたりき。

★ 第六 「迷信」
昔、関ヶ原の役に、徳川家康、出陣の日を九月一日と定めたり。

ある者、「この日は西方ふさがりたれば、日を改めたまえ。」と言いしに、家康答えて、「西方ふさがらば、我行きて開かん、なんのはばかるところかあらん。」とて、出陣せしに、この戦は家康の方の大勝利となれり。

また、ある人、藤井頼齋という学者に「御身の屋敷には祟りあり。はやく、他に移りたまえ。」と勧めしが、頼齋、少しも、気にかけず、二十年の長き間、屋敷に住みしに、何の祟りもなかりき。

方位の説の、迷信なることは、家康の話によりても、知らるべく、家相の説の、迷信なることは、頼齋の話によりても、知らるべし。

人は知識を磨き、道理を極め、これによりて、事を行うべし。

決して、迷信に陥る事なかれ。

★ 第七 「勇気」
高田屋嘉兵衛は淡路の人なり。

幼きときより、船頭の雇人となり、後、摂津の兵庫にて、運送業を開き、家業に勉励し、やや、富裕の身となりたり。

このころ、ロシア人、しばしば、千島に入り込みしにより、幕府は、この地方に、役人を遣わさんとし、航海をよくするものを募りしが、海路の危険を恐れて、応ずる者なかりき。

嘉兵衛は、進んで、その募りに応じ、幕府の命を受けて、国後島より択捉島に至る航路を調べ、詳しく、報告せり。

その後、嘉兵衛は幕府の命を受けて、択捉島に渡り、土民に産業を授け、所々に、漁場を開きて、その業を励ましたり。

★ 第八 「勇気」(続き)
ある年、ロシア人、千島等にきたりて、掠奪をなせり。

よって、その後、ロシアの海軍少佐ゴロブニン等が、国後島にきたりし時、幕府の役人は、これを捕らえたり。

ゴロブニンの配下の士官リコルドこれを憂え、ブロブニンの安否をたださんがため、日本人をとらえんと待ちいたり。

たまたま、嘉兵衛は国後島の近海を航せしに、ロシアの船、ふいに、きたりて、嘉兵衛を捕らえ、その本船に、連れ行きたり。

本船には、七十余人の兵士ありて、みな、銃を携えて、並びいたりしが、嘉兵衛は、その間を通りて、少しも、恐れる色無く、リコルドに面会せり。

かくて、ついに、カムチャッカにつれゆかれたり。

嘉兵衛は、我が国とロシアとの間の争いを解かんと思い、ある日、リコルドに問いて、我が国にきたりて、掠奪をなしたるは、ロシアの暴民の仕業にして、ロシア政府のあずからざることなりと聞き、リコルドに説きて、「幕府に、その言い訳をなして、詫びるべし。」といえり。

よって、リコルドは、嘉兵衛とともに、国後島にいたれり。

嘉兵衛はロシア人と幕府との間に立ちて、周旋し、ロシアよりは、さきの掠奪を詫びしめ、我が国よりは、ゴロブニン等をかえさしめて、長く、むすばれいたる両国間の争いを解きたり。

嘉兵衛のごときは、実に、勇気に富みし人と言うべし。

★ 第九 「自立自営」
人は、成長の後、みな、業をおさめ、家を整えざるべからず。

これ人たるの務めなり。

されば、幼きときより、我が力にかなうことは、自ら、これを成すの習慣を作るべし。

幼き時より、かかる習慣を作りおかば、成長の後も、よく、自立して業をおさめ、家を整える人となり得るべし。

かかる自立自営の民多き国は栄え、少なき国は衰える。

格言
天は、自ら、助ける者を助ける。

★ 第十 「忍耐」
今より百三十年程前に、前野良沢という医師ありき。

この頃は、西洋諸国との交通、概ね、禁ぜられ、西洋の学芸を学ばんとするもの、稀なりしが、良沢は知人のもてるオランダの書を見、それより、奮発して、オランダ語を学びたり。

そのころ、杉田玄白という医師あり。

オランダの解剖書を見て、その精密なるに感服し、これを翻訳せんことを志し、良沢にはかりしに、良沢は、玄白をはじめ、同志数人を我が家に集めて、これに着手したり。

しかるに、いずれも、オランダ語にあさきこととて、一日に、一句をも解し得ざりしこともあり、されど、よく、忍耐して、勉強せしかば、次第に、解し、得るようになり、四年の間に、草稿を書き改める事、十一回にして、出版するにいたれり。

我が国の医師、この書によりて、はじめて、人体の構造を、つまびらかに、知る事を得たり。

格言
点滴、石をうがつ。

★ 第十一 「勉学」
リンカーンはアメリカ合衆国の貧しき農家に生まれたり。

父は、少しも、文字を知らざりしかば、深く、不便を感じ、その子には、学問をさせたしと思い、リンカーンが7歳になりしとき、読み本を買い与えしが、母も、また、リンカーンの教育に、心を用いたり。

かくて、リンカーンは、学校に入学し、毎日、一里半余りの道を往復して、勉強したり。

リンカーンは、その後、父に従いて、他の地方に移り、野や山に出でて、父と共に、開拓に従事せしが、勉学の志は、少しも、変わることなく、森林に入りて働く間にも、暇あれば、もえさしの枝を持って、板の上に、文字を習いその所持せる三冊の本を、いくたびとなく、読みて、おおかた、これを暗唱するにいたれり。

★ 第十二 「勉学」(続き)
このころ、リンカーンの家の近くに、移り住む人、次第に、増えたれば、人々はかりて、その村に学校を建てたり。

リンカーンは、これに入学することを得て、日々、通学せしが、わずか数週間にして、この学校廃せられしかども、在学中に、よく、勉強せしため、学業の進歩著しかり。

その後、また、近所の人々より種々の書物を借りて、怠らず、これを読みたり。

十六歳の時、ある人よりジョージ・ワシントンの伝記を借り、これを戸棚に入れて、寝ねしに、夜の間に、雨漏りて、この書物を濡らせり。

リンカーンこれを見て、大いに、驚き、持ち主のもとに行きて、事情を話し、労役に服して、その償をつぐなわんことを請い、三日の間、その人のために働きて、ついに、その書物を我がものとなしたり。

★ 第十三 「正直」
リンカーンは、その後、ある商店の番頭となりしが、正直にして勉強せしゆえ、その店、おいおい、繁盛したりき。

ある日、一人の婦人この店にきたりて、買い物を成し、償をはらいて、立ち去りたり。

その夜、リンカーンは一日の勘定を成して、十二銭余りを、多く、受け取りしことに心づき、直ちに、店の戸を閉め置き、一里ばかりも隔たりたる、かの婦人の家に尋ね行きて、その銭を返したりき。

また、ある時、一人の婦人に茶半斤を売りたり。

婦人の帰り去りたる後、四半斤を渡ししことに心づき、さらに、四半斤の茶をかの婦人の家に持ち行きて、渡したりき。

★ 第十四 「同情」
リンカーンは、ある寒き日に、森の中を通りしに、一人の男、はだしにて、寒さに震えながら、木を切りいたり。

リンカーンはこれを哀れみ、この男を、たき火にあたらせおき、自ら、斧を取りて、木を切りやりたり。

また、ある日、一人の友人と、馬に乗りて、野に出でしに、道あしくして、進みがたきところにいたり、一匹の豚の、泥の中に陥りて、もがき苦しむを見たり。

リンカーンは、そのまま、七町ばかりも行きしが、友人に向かい、「我はさきの豚を引き上げねば、心やすからず。」と言い、引き返して、豚を救い上げて、立ち去りたり。

リンカーンのごときは同情に富みたる人と言うべし。

格言
我が身をつめって、人の痛さを知れ。

★ 第十五 「人身の自由」
その後、リンカーンは弁護士となり、国会議員に選挙せられ、黒人が奴隷として使われることを哀れみ、常に、黒人のために尽力したりき。

その頃、北部諸州にては、奴隷を解放すべしとの論、盛んなりしが、南部諸州は、堅く、これを拒みて、議論、二つに、分かれたり。

リンカーンは、あまねく、諸州をめぐりて、熱心に、奴隷を解放すべしと説きたり。

やがて、リンカーンの人望、大いに、加わり、西暦千八百六十年に、大統領に選挙せられしが、南部諸州は、合衆国より、分かれて、独立せんとし、兵器、要塞等を占領せしより、南北戦争となり、五カ年間の長きに渡りて、ついに、北軍の勝利となれり。

リンカーンは、この戦争中に、奴隷解放令を出して、四百万の奴隷を、一時に、解放せしかば、黒人は言うに及ばず、他の人々も、リンカーンの英断と恩徳とを称したり。

すべて、人身の自由を束縛し、人身を売買するがごときは、はなはだ、悪しきことなれば、何人に対しても、この心得を忘るべからず。

★ 第十六 「慈善」
和気広虫は清麻呂の姉にて、情けの心深き人なりき。

ある年、大飢饉にて、人々、糊口に苦しみ、子を捨てるもの多かりしとき、広虫は人をやりて、道ばたの捨て子を拾い上げしめ、我が手に養い育てしもの、八十三人の多きにのぼれり。

称徳天皇は、その行を褒めさせたまいき。

格言
慈善家は、みだりに、与えず、正しく、与える。

★ 第十七 「天皇陛下」(その一)
天皇陛下は、御年十六にて、御位をつがせたまいしが、幕府を廃し、自ら、大政をとりたまいて、まず、左の五カ条の御誓文をくだしたまえり。

一 広く会議を興し万機公論に決すべし

一 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ人心をして倦まさらしめんことを要す

一 旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし

一 智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

我が国未曾有の変革を為さんとし朕これを以て衆に先んじ天地神明に誓い大にこの国是を定め万民保全の道を立たんとす衆またこの趣旨に基づき協心努力せよ

★ 第十八 「天皇陛下」(そのニ)
天皇陛下は、常に教育に大御心を用いさせられ、明治五年に、学制を公布せしめたまい、二十三年には、教育に関する勅語を下したまえり。

また、軍事に大御心を用いさせられ、明治6年に、徴兵令を公布せしめたまい、15年には、陸海軍人に勅諭を下したまえり。

されば、我が国の軍人は、明治二十七、八年戦役の際にも、明治三十三年清国事変の際にも、大いなる成功をあらわして、我が国の誉れを海外にかがやかせり。

★ 第十九 「天皇陛下」(その三)
明治二十二年、天皇陛下は大日本帝国憲法を発布せられ、二十三年より帝国議会を開きたまえり。

これ、我が国、開闢以来、未曾有の盛事とす。

明治維新以来、我が国と諸外国との交際は、しだいに、親密を加え、明治27年以来、条約を改正せられ、諸外国と対等の交際をなすにいたれり。

我が日本の国運が、かく、大いなる進歩をなすにいたりしは、天皇陛下の御盛徳によること多し。

かかるめでたき大御代に生まれ、かかる深き皇恩に浴する我等臣民は、よく、その本分をつくして、天皇陛下の大御心にそいたてまつるべし。

★ 第二十 「公民の心得」
市町村の公民たるものは、市町村会会議員を選挙し、また、これに選挙せらるることを得べし。

市町村会議員は、その市町村の行政事務の評議にあずかるものにして、その適否は、市町村の、よく、治まると否とに関係すること、もっとも、大なれば、これを選挙する際には、みな、よく、心を用いて、適当なる人を選挙すべし。

郡会議員、府県会議員等を選挙するにも、また、同じ心得を以てすべし。

★ 第二十一 「公衆衛生」
衛生に心を用いることは、我が一身のためのみならず、公衆のためにも大切なることなり。

なんとなれば、おのれ、衛生に注意せざりしため、伝染病にかかりなどすれば、人に迷惑をかけ、害をこうむらしむること多ければなり。

これら、ペスト、疱瘡、赤痢、腸チフス、ジフテリヤ、はしか等のごとき伝染病の流行は、多くは、衛生のゆきとどかざるより起こる。

されば、常に、公衆衛生についての注意を怠るべからず。

便所を汚し、飲料水に不潔物を投じ、塵芥を溝に捨てなどするは、いずれも、公衆衛生を重んぜざるものなれば、決して、かかることをなすべからず。

★ 第二十二 「公益」
徳川吉宗は公益に心を用いし人なり。

当時、江戸の市中に火災多く、人々の難儀、少なからざりしが、伊賀蜂郎次というもの、人家の板葺、茅葺を禁じて、瓦葺になさんことを建言せり。

吉宗は、蜂郎次が、世のために、心を用いることの深きを褒めて、その説を用い、かつ、火災にかかりしものには、金を貸して、瓦屋根をつくる費用を助けたりき。

吉宗、また、辺鄙の地方にては、医薬に乏しかるべしとて、医書をつくらしめて、これを分かち与え、また、ある医師の議を入れ、江戸に施薬院を設けて、貧民の、病にかかりて、薬品に苦しめるもの、看護人なきものなどに治療を受けしめ、食物、衣服、臥具等をも与えることとせり。

★ 第二十三 「産業を興せ」
吉宗は、常に、人民の利を重んじ、国産を増やさんことをはかりたり。

その頃は、我が国人、砂糖を製造することを知らざりしかば、外国品のみを用いたり。

吉宗は、かかる日用品を外国に仰ぐは、不利なりとて、砂糖黍の栽培法、砂糖の製造法を尋ね、やがて、砂糖黍の苗を琉球より取り寄せ、これを植え付けて、砂糖を製造せしめたり。

これより後、諸国に砂糖黍を植えること広まり、次第に、良き砂糖を製造するにいたれり。

その頃までは、薩摩芋も、わずかに、西国にのみ広まりて、広く、世に知られざりしが、吉宗は、米穀の乏しき時、これを補うの効、大なることを聞き、その栽培の法を調べ、青木昆陽等をして、薩摩より種芋を取り寄せ、これを植えしめて、世に広めたり。

吉宗、また、ハゼの木はロウを作るに有用なればとて、その実を、紀伊より取り寄せて、これが繁殖をはかりたり。

★ 第二十四 「産業に工夫を凝らせ」
久留米がすりは、井上デンという婦人の、初めて、織りいだししものなり。

デン、ある日、白糸を、所々、くくり、藍汁に浸して、これを取り出し、くくり糸をほどきて、布を織りしに、白き模様、所々に、あらわれて、面白き織物となりたり。

その後、なお、次第に、工夫を加えて、これを改良し、ついには、種々の模様あるかすりをも、織り出すにいたれり。

この織物は久留米がすりとて、その販路、ますます、広がりたり。

デンが、かく、産業に工夫をこらししは、感ずべきことならずや。

★ 第二十五 「職業」
人は、必ず、職業に従事せざるべからず。

職業に従事して、よく、勉励する時は、その身の幸福となるのみならず、人にも利益を与え、また、その国を盛んならしむるものなり。

されば、富めるも、貧しきも、みな、一定の職業に従事して勉励すべし。

職業を定めるには、自己の能力と事情とに応じ、適当なる職業を選ぶべし。

一度、定めし職業は、軽々しく、変えることなく、よく、勉励して、これが改良進歩をはかるべし。

★ 第二十六 「僥倖」
世には、投機などによりて、一時に、大いなる富を得んとするものあり、ある日は、勤労を積むことなく、万一の僥倖をたのみて、事業を企てるものあり。

これ等は、多くは、成功せず、たとえ、成功する人ありとも、模範とするに足らざるなり。

着実にして、僥倖を求めず、職業に勉励し、正しき生活を成すは、人たるものの務めなり。

★ 第二十七 「国民の務 」
国民たる者は法令を重んぜざるべからず。

これを重んぜざるは、国の秩序を乱すものなり。

国家を守護し、外寇を防ぐは、国民たるものの務めなり。

男子、丁年に達すれば、兵士となりて、国のために尽くす心がけなかるべからず。

国には、種々の官署を設け、また、陸海軍を置きて、多くの費用を要す。

その他、土木、教育、衛生等のために要する費用も少なからず。

国民は租税を納めて、国の費用を分担せざるべからず。

国家の進歩は国民各自の進歩により、国民各自の進歩は、多く、教育の力による。

されば、国民は子弟の教育を怠るべからず。

★ 第二十八 「良き日本人」
良き日本人たるものは、臣民たる本分を尽くすことを務めるべし。

公民としては、公民の心得を守り、国民としては、国民の務めを尽くし、家内の人に対しても、他人に対しても、各々、その道を尽くすべし。

また、常に、徳行を励み、知識を磨きて、国の文明を進め、公益を図り、産業を興して、国の富を増さざるべからず。

良き日本人たるものは、正直にして、勇気を養い、自立自営の習慣を作り、着実に業務に勉励し、工夫をこらして、職業の改良進歩をはからざるべからず。

これ等は、みな、我が国の発達進歩をはかる基にして、また、天皇陛下の大御心にそいたてまつるの道なり。

2006年12月3日更新