★ 第一 「皇后陛下」
皇后陛下は、病院に御出になって、傷を受けた軍人や、病気になった軍人を、お見舞いになりました。

皆々涙を流して、大そうありがたがりました。

★ 第二 「忠君」
和気清麻呂は宇佐八幡の神の御教えを承って参りました。

「臣下の身分で天皇の御位を望むような者は、早く除けと、神がお告げになりました。」と、道鏡の聞いているのも恐れず、天皇に申し上げました。

★ 第三 「孝行」
渡辺登は家が貧しい上に、父が病気になったので、家の暮らしを助けるために、絵を描くことを稽古しました。

また長い間父の看病をして、少しも怠りませんでした。

父母の恩は山よりも高く、海よりも深し。

★ 第四 「兄弟」
家が貧しかったため、登の弟や妹は、皆早くからよそへやられました。

登が十四の年、八つばかりになる弟もほかへ連れられて行くことになりました。

その時登は雪が降って寒いのに、遠い所まで送って行って、泣く泣く別れました。

★ 第五 「勉強」
登は絵を売って家の暮らしを助けながら、なおなお絵の稽古を励みました。

またその間に学問もしました。

学問する暇が少ないので、毎朝早く起きて、ご飯を炊き、その火のあかりで本を読みました。

艱難、汝を玉にす。

★ 第六 「規律」
登はだんだんと重い役に取り立てられましたが、日々の仕事の時刻を定めておいて、毎日その通り行いました。

このように規律正しくしましたので、絵もたいそう上手になり、学問も進んで、後には偉い人になりました。

★ 第七 「正直」
ワシントンは、庭に遊びに出て、父の大事にしていた桜の木を切り倒しました。

「これは誰が切った。」と父に尋ねられた時、「私が切りました。」と、隠さずに答えて詫びました。

父はワシントンの正直な事を喜びました。

これはワシントンの6歳の時のことでありました。

★ 第八 「友達」
昔細井平洲という学者がありました。

仲の良い友達が頼って来た時、長い間家に泊めておいて、一緒にむつましく暮らしました。

近所の人達は、まことの兄弟だと思っていました。

★ 第九 「師を敬え」
上杉鷹山は平洲を先生にして学問をしました。

ある年平洲を自分の国へ招きました。

平洲が来た時、鷹山は身分の高い人でありましたが、わざわざ遠くまで、迎えに出て、丁寧に挨拶をしました。

それから近所の寺に行って休みましたが、途中自分が先生より先に立つようなことはしませんで、深く敬いました。

★ 第十 「規則に従え」
春日局は、ある夜遅く、お城に帰って来ました。

門が閉まっていたので、開けさせようとしましたら、門番の役人が「上役の許しがあるまではお通し申すことは出来ません。」と言いました。

局は「それはもっともなこと。」と言って、寒い夜風に吹かれながら、門の開くまで外に待っていました。

★ 第十一 「行儀」
松平好房は小さい時からかりそめにも、父母の居る方に、足を伸ばしたことはありませんでした。

よそに行く時も、帰って来た時も、必ず父母の前に出て、その事を告げました。

父母から頂いた物は大切にして、いつまでも持っていました。

また人が父母の話をすると、いつも正しく居直って聞きました。

★ 第十二 「勇気」
木村重成は豊臣秀頼の家来で、勇気のある人でありました。

秀頼が徳川家康と戦をした時、重成は二十歳ばかりでありましたが、勇ましい働きをしました。

間もなく秀頼が家康と和睦をすることになった時、重成は家康の所へ使いに行って、怖めず臆せず立派に役目をし遂げて帰りました。

★ 第十三 「堪忍」
ある時小坊主が重成をさんざん罵った上、打ってかかろうとしたことがあります。

けれども重成は逆らわずに堪えていました。

見ていた人々は重成を臆病者と思いました。

その後、重成が戦に出て、勇ましく働きましたので、本当の勇気のある人だと、皆々感心しました。

ならぬ堪忍、するが堪忍。

★ 第十四 「物事に慌てるな」
毛利吉就の奥方は、近所に火事があった時、家来の人々から早く立ち退くようにと勧められました。

奥方は落ち着いていて、かえって人々の慌てるのをとどめ、荷物をかたづけたり、火を防いだりさせたので、屋敷は無事に残りました。

★ 第十五 「祝日」
我が国の祝日は、新年と紀元節と天長節とであります。

新年は年の初め、紀元節は神武天皇の御位にお就きになった日、天長節は天皇陛下のお生まれになった日で、いずれもめでたい日であります。

★ 第十六 「皇室を尊べ」
徳川光圀は深く皇室を尊んだ人であります。

人々に日本の良い国柄であることを知らせて、忠義の心をおこさせるために、多くの学者を集めて、日本の歴史を書かせました。

また楠木正成の石碑を湊川に立てて、その忠義をあらわしました。

★ 第十七 「倹約」
徳川光圀は、女中達が、紙を粗末にするので、紙漉き場を見せにやりました。

女中達は、紙漉女が冬の寒い日に、水の中で働いているのを見て、紙をこしらえるのは、たやすい事でないと覚りました。

それからは紙を無益に使わないようになりました。

★ 第十八 「慈善」
昔飢饉のあった時、鈴木今右衛門夫婦は、田畑や着物を売って、多くの人を救いました。

その子にこの時12歳になる娘がありましたが、ある寒い日同じ年頃の女の子が物もらいに来ました。

それを見て、母は娘に「あの子は単衣物一枚で震えています。お前の着ている綿入れを一枚脱いでやりませんか。」と言いました。

娘はすぐに良い方の綿入れを脱いでやりました。

★ 第十九 「恩を忘れるな」
弥兵衛の主人が島流しになりました。

弥兵衛は主人の身の上を案じ、島へ見舞いに行きたいと思って、まず一心に船をこぐことを習いました。

それから船乗りになって、はるばる島に渡って、主人に会いました。

その後、主人が許されて帰ってからも、親切に世話をして、よく仕えました。

★ 第二十 「謙遜」
吉田松陰に久坂玄瑞と高杉晋作という二人の優れた弟子がありました。

玄瑞は常に晋作を褒めて、「高杉君は偉い人だ。自分は及ばない。」と言い、晋作もまた、「久坂君は立派な人だ。自分は及ばない。」と言って玄瑞を褒めました。

松陰は二人が互いに謙遜して褒め合っているのを聞いて、たいそう喜びました。

★ 第二十一 「寛大」
昔貝原益軒という名高い学者がありました。

ある日留守の間に、一人の弟子が、隣の若者と、庭で相撲を取って、益軒が大切にしていたぼたんの花を折りました。

弟子は心配して、人に頼んで、過ちを詫びてもらいましたが、益軒は笑って、そのまま許しました。

★ 第二十二 「健康」
益軒は小さい時には、身体が弱かったので、常々養生をしました。

それで身体が次第に丈夫になって、八十五歳までも長生きをし、多くの本を著す事が出来ました。

薬より、養生。

★ 第二十三 「自分の物と人の物」
馬子が家に帰って馬の鞍を下ろすと、財布が出ました。

これは先に乗せたお客の忘れ物だろうと思って、すぐにその宿屋に返しに行きました。

お客はたいそう喜んで、お礼の金を出しましたが、馬子は「あなたの物をあなたが受け取るに、何でお礼が要りますか。」と言って、なかなか受け取りませんでした。

★ 第二十四 「共同」
年寄りが子供達に、「この三本の棒を立てて、その上に絵本を乗せてごらん。」と言いましたが、誰にも出来ませんでした。

その内一人の子供が棒を寄せて、ひもで中程をくくり、端を開いて、その上に絵本を乗せました。

そこで、年寄りは「一本ずつでは立たないが、三本一緒になると、このように立って、絵本が乗ります。人も共同すれば、一人一人で出来ないことも良くできます。」と言って聞かせました。

★ 第二十五 「近所の人」
佐太郎は家が貧しかったけれども、よく近所の人達に親切を尽くしました。

ある時近所の人の家の屋根が損じているのを見て、村の人達から、わらを少しずつもらい集め、自分も出してそれを直させました。

また火事にあった人には、自分の藪から竹を切って来て贈りました。

★ 第二十六 「公益」
佐太郎は村役人になりました。

村の往来の土橋が度々損じて、人々が難儀をするので、佐太郎は仲間の人達と相談して、それを石橋に掛け替えました。

それからは、壊れることもなくて、皆々喜びました。

その他にも色々村の公益になる事をしましたので、佐太郎は村役人の頭に上げられました。

★ 第二十七 「良い日本人」
良い日本人になるには、忠義の心を持ち、父母に孝行を尽くし、兄弟仲良くし、先生を敬い、友達には、親切にし、近所の人には良くつきあわねばなりません。

正直で謙遜で、心は寛大に、慈善の心も深く、人から受けた恩を忘れず、人と共同して助け合い、規則には従い、自分の物と人の物との分かちをつけ、また世間のために公益を図らなければなりません。

その他、行儀を良くし、学問を励み、身体の健康に気をつけ、規律を正しくし、勇気を養い、また堪忍や、倹約の心がけがなければなりません。

かように、自分の行いを謹んで、良く人に交わり、世のため、人のために尽くすように心がけると、良い日本人になれます。

2006年12月4日更新