★ 第一 「天皇陛下」
明治二十七、八年の戦の時、天皇陛下は大本営を広島へ御進めになりました。

その時の御座所は粗末な西洋作りの一室であったので、おそばの人々がたびたび御建て増しのことを申し上げました。

けれども陛下は「今日の場合それにはおよばぬ。」と仰せられて、御許しがありませんでした。

また陛下は朝早くから夜遅くまで、御軍服のままで、戦のことを初め、色々の事を御指図あそばされて御いそがしくあらせられたことは、まことにおそれ多いことでありました。

★ 第二 「能久親王」
清国が台湾を我が国に譲った時、台湾に居った清国の者が、なお我が国に、手向かいました。

能久親王はこれを御征伐になりましたが、兵士と共にたいそう御難儀をなさったけれども、少しもおいといになりませんでした。

その後、親王は御病気におかかりになりましたので、軍医は、御留まりになって御養生あそばされるように申し上げました。

親王は「我が身のために国の大事をおろそかにすることは出来ぬ。」と仰せられ、かごに乗って御進みになりました。

親王はかように国のために御尽くしになりましたが、御病気が重くなって、終に御隠れになりました。

★ 第三 「忠君愛国」
明治十年熊本の城が賊軍のために囲まれました。

その時城を守っていた谷少将は城の中の様子を遠くの官軍に知らせようと思い、その使いを谷村計介に言いつけました。

計介は身にすすを塗り込み、着物を替え、夜に紛れて城を出ました。

途中で賊のために二度も捕らえられ、色々難儀な目に遭いましたが、とうとう官軍の本営に行き着いて、首尾良くその使いを果たしました。

★ 第四 「靖国神社」
靖国神社は東京の九段坂の上にあります。

この社には国のために死んだ人々を祀ってあります。

春と秋との祭日には、勅使を遣わされ、臨時大祭には天皇・皇后両陛下の御地神に御参拝になる事もあります。

忠臣義士のためにこのように懇ろなお祭りをするようになったのは、天皇陛下の思し召しによるのであります。

我等は陛下の御恵みの深い事を思い、ここに祀ってある人々に習って、国のため君のために尽くさなければなりません。

★ 第五 「志を立てよ」
豊臣秀吉は尾張の貧しい農家の子で、八歳の時父に別れました。

秀吉は小さい時から立派な人になろうと志を立てていましたが、16歳の時ただ一人遠江へ行って、松下加兵衛という武士に仕えました。

秀吉は主人のためによく働いて、だんだん引き立てられましたが、仲間の者にそねまれたので、暇を貰って尾張へ帰りました。

その後、秀吉は織田信長が偉い大将であるということを聞いて、つてを求めて信長に仕えました。

★ 第六 「職務に勉励せよ」
秀吉は信長に仕えてからも、人に優れて良く働きました。

その頃木下藤吉郎秀吉と名乗っていましたが、ある日信長が敵を攻めるため、夜の明けないうちに、城を出ようとした時、秀吉はただ一人馬に乗って待っていました。

ある年城の塀が百間ばかり崩れました。

信長は家来に言いつけて普請をさせましたが、二十日ほどたってもはかどりませんので、改めて秀吉にその役を言いつけました。

秀吉は人夫を急がせて、明くる日にそれを仕上げました。

秀吉はこんなに仕事に励みましたから、次第に重く用いられました。

★ 第七 「皇室を尊べ」
秀吉は信長の亡くなった後国内を平らげ、おいおい高い位に昇りました。

その頃世の中が乱れていたために、皇室は大そう御不自由がちであらせられたので、秀吉は力を尽くして皇室の御ためをはかりました。

秀吉は京都に屋敷を構えて居りましたが、ある年その屋敷に天皇の行幸を御願い申しました。

御道筋には多くの人々が拝観していて、中にはこの太平の有様に感じて涙を流して喜んだ者もありました。

この時秀吉は大名達に皇室を尊ぶことを天皇の御前で誓わせました。

京都の豊国神社は秀吉を祀ってある社であります。

★ 第八 「孝行」
昔播磨にお房という孝行な女がありました。

家が貧しいため、8歳の時から、子守りなどに雇われて、暮らしを助けました。

また父が草履や草鞋を作る側で、藁を打って手伝いました。

十一歳の時から、奉公に出ましたが、主人から頂いた物は父母に送りました。

また暇があれば主人の許しを受けて家に帰り、懇ろに両親を慰め労りました。

お房はかように親を大切にしたので、役所から、褒美をいただきました。

孝は親を安んずるより大いなるはなし。

★ 第九 「兄弟」
昔兄弟二人が田地の争いをして、役所に訴え、裁判を願いました。

泉八右衛門という役人は、その裁判をするために、二人を自分の家へ呼び寄せ、狭い一室の中で待たせておきました。

二人は初めは離れていて、話もしなかったが、長い間待っているうちに、だんだん一つの火鉢によって手をあぶり、互いに話をするようになりました。

そのうちに小さい時、父母のそばで仲良く遊んだことなどを思い出し、今更こんな争いをしたことを後悔して、仲直りをしました。

その後二人は仲の良い兄弟になりました。

兄弟は両手の如し。

★ 第十 「召使」
お綱は十五歳の時、子守り奉公に出ました。

ある日主人の子供をおぶって遊んでいると、一匹の犬が来て、お綱にかみつきました。

お綱は驚いて、逃げようとしましたが、逃げる暇がなかったので、おぶっていた子供を下ろし、自分がその上にうつ伏せになって子供をかばいました。

犬は激しく飛びかかって、お綱に食いつき、多くの傷をおわせましたが、お綱は子供をかばって少しも動きませんでした。

その内に人々が駆けつけて犬を打ち殺し、お綱を介抱して主人の家に帰らせました。

子供には怪我がなかったが、お綱の傷は大変に重くて、そのために、とうとう死にました。

これを聞いた人々はいずれも感心して、お綱のために石碑を建てました。

★ 第十一 「身体」
伴信友は朝起きた時と、夜寝る時には、いつでも姿勢を正しくして座り、三、四十回も深呼吸をし、また毎朝冷たい水で頭を冷やしました。

そのほか朝と晩には弓を引いたり、刀を振ったりして、運動を努めました。

かように信友は常に身体を大切にしたので、年を取っても丈夫で、たくさんの本を著す事が出来ました。

我等は常に姿勢に気をつけ、運動を怠らず、着物は清潔にし、眠りや食事は規則正しくしなければなりません。

また身体に垢をつけておいたり、薄暗い所で物を見たりなどしてはなりません。

★ 第十二 「自立自営」
高田善右衛門は十七歳の時自分で働いて家を興そうと思い立ちました。

父からわずかの金をもらい、それを元手にして灯芯と傘を買入れ、遠い所まで商売に出かけました。

そこには山が多くて道が険しかったので、大きな荷物を担いで通るにはたいそう難儀でありました。

善右衛門は苦しい思いをして幾たびも険しい山坂を越えました。

また時々淋しい野原を通った事もありました。

このように難儀をして村々を廻って歩き、雨が降っても、風が吹いても、休まずに、何年も働いたので、僅かの元手で多くの利益を得ました。

★ 第十三 「自立自営」(続き)
善右衛門はその後呉服を仕入れて売りに歩きました。

いつも正直で、倹約で、商売に勉強しましたから、立派な商人になりました。

ある時善右衛門は商売の荷物を持たないで、ある宿屋に泊まりました。

知り合いの下女が出て来て、「今日はお連れがございませんか。」と言いました。

善右衛門は不思議に思って、「いつも一人で来るのに、お連れとは誰の事ですか。」と尋ねましたら、下女が、「それは天秤棒のことでございます。」と言いました。

善右衛門は常に自分の子供に「自分が家をおこすことの出来たのは、精出して働いて、倹約を守り、また正直にして無理な利をむさぼらなかったからである。」と言って聞かせました。

★ 第十四 「志を固くせよ」
イギリスのジェンナーはふとした事から、種痘の事を思い付きました。

人に笑われても、少しもかまわずに、色々と工夫を凝らし、二十三年もかかって、とうとう、その仕方を発明し、まず自分の子に植えてみた上、書物に書いて世間の人に知らせました。

発明をしてからも、ジェンナーは色々と悪口を言われましたが、ますます志を固くして工夫を続けておりました。

その内にこの発明の事がだんだん世間に広まり、今では我等もそのおかげを被って居るのであります。

★ 第十五 「知識を広めよ」
八幡太郎義家はある日よそへ行って、戦の話をしていました。

大江匡房という学者がそれを聞いて、「良い武者であるが、惜しいことには、戦の学問を知らない。」と、独り言を言いました。

義家の共のものがそれを聞いて、義家に告げました。

義家はすぐに匡房に頼んで弟子になり、戦のことを学びました。

その後また戦があって、義家が敵を攻めに行った時、遙か彼方の田へ、多くの雁が降りようとして、にわかに列を乱して飛び去りました。

義家は匡房から教えられたことを思いだし、「雁の列が乱れるのは伏兵があるためであろう。」と言って、兵士に探させました。

果たして大勢の敵が隠れていました。

玉磨かざれば光無し、人学ばざれば知無し。

★ 第十六 「迷信を避けよ」
ある町に目を患っている女がありました。

迷信の深い人で、かねてある所のお水が目の病に良いという事を聞いていたので、それを用いました。

けれども目は日々悪くなるばかりでありました。

ある日親類の人が見舞いに来て、病気の重いのに驚いて、無理に医者の所へ連れて行って見て貰わせました。

医者は診察をして、「早くお出でになったら良かったに、今になっては直す事が難しい。」と言いました。

これを聞いて病人は初めて道理に合わぬ事を信じたのを後悔しました。

★ 第十七 「克己」
後光明天皇は御生まれつきたいそう雷が御嫌いであらせられました。

ある時書物を御読みになって御感じになり、雷の御嫌いなのを直そうと思し召されました。

それで雷が激しく鳴った日わざとみすの外へ御出になり、雷のやむまで静かに座って御出になりました。

それからは雷を御恐れあそばす御模様がなくなりました。

自分の性質を直すのを克己と申します。

良い人になろうとするには克己は大切な事であります。

★ 第十八 「礼儀」
人は礼儀を守らなければなりません。

礼儀を守らなければ人に卑しまれます。

常に言葉遣いを丁寧にし、また行儀を良くしなければなりません。

人から手紙を受けて返事のいる時は、すみやかに返事をしなければなりません。

人と親しくなると礼儀を忘れるようになりやすいが、親しい仲でも礼儀を守らなければ、長く仲良く付き合う事が出来ません。

親しき仲にも礼儀あり。

★ 第十九 「生き物を憐れめ」
ナイチンゲールはイギリスに生まれ、小さい時から情け深い娘でありました。

ある時羊飼いの犬が足を傷めて苦しんでいるのを見て、傷口を洗い、包帯をしてやりました。

明くる日もまた行って手当をしてやりました。

それから二、三日たって、ナイチンゲールは羊飼いの所へ行きました。

犬は傷が治ったと見えて、羊の番をしていましたが、ナイチンゲールを見ると、嬉しそうに尾を振って、お礼を言うような様子をしました。

★ 第二十 「博愛」
ナイチンゲールが三十四歳の頃クリミア戦争という激しい戦がありました。

戦が激しかった上に、悪い病気がはやったので、病兵や負傷兵がたくさん出来ましたが、医者も看護をする人も少ないため、たいそう難儀をしました。

ナイチンゲールはそれを聞いて、大勢の女を引き連れて戦地へ出かけ、看護の事に骨折りました。

戦争が済んで国へ帰りました時、ナイチンゲールはイギリスの女帝からお褒めにあずかりました。

また人々もその博愛の心の深いことに感心しました。

★ 第二十一 「国旗」
この絵は、紀元節に家々で日の丸の旗を立てたのを、子供等が見て、喜ばしそうに話をしている所であります。

どこの国にもその国の証の旗があります。

これを国旗と申します。

日の丸の旗は我が国の国旗であります。

我が国の祝日や祭日には、学校でも家々でも国旗を立てます。

その外、我が国の船が外国の港に泊まる時にも之を立てます。

国旗はその国の証でありますから、我等日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。

★ 第二十二 「祝日・大祭日」
我が国の祝日は、新年・紀元節・天長節の三つで、これを三大節と申します。

新年は年のはじめ、紀元節は二月十一日で、神武天皇が御位につかせられた日、天長節は十一月三日で、天皇陛下の御生まれになった日、いずれもめでたい日であります。

大祭日は一月三日の元始祭、一月三十日の孝明天皇祭、春分の春季皇霊祭、四月三日の神武天皇祭、秋分の秋季皇霊祭、十月十七日の神嘗祭、十一月二十三日の新嘗祭であります。

祝日・大祭日は大切な日で、宮中ではおごそかな御儀式があります。

我等はよくその日のいわれをわきまえて、忠君愛国の心を養わなければなりません。

★ 第二十三 「法令を重んぜよ」
昔幕府の重い役人に松平定信という人がありました。

ある年京都へ行って御所に行きました。

下乗の立て札のある所でかごから降り、槍などもそこに残しておき、よく御規則を守って、少しも無礼な振る舞いがありませんでした。

またある年定信は笠をかぶったまま根府川の関所を通ろうとしました。

関所の役人の一人が「規則によって笠をお取り下さい。」と言いました。

定信はこれを聞くとすぐに笠を取って通りました。

その日宿に着いて後、定信は来合わせていた小田原藩の家老に「今日笠をかぶったまま関所を通ろうとした時、一人の役人が心付けてくれたのは真にありがたい。その者に厚く礼を伝えてくれよ。」と挨拶をしました。

★ 第二十四 「公益」
昔栗田定之丞という役人がありました。

海岸の村々では暴風が砂を吹き飛ばして、家や田畑を埋める事が毎度あったので、定之丞は之を防ごうといろいろ工夫しました。

まず海岸の風の吹く方に、藁束を立て連ねて砂を防ぎ、その後ろに、柳やグミの枝をささせました。

皆芽をふくようになってから、更に松の苗木を植えさせましたら、次第に大きくなって立派な林になりました。

定之丞は18年の間この事に骨折りましたが、そのために風や砂の憂いが無くなって、畑も多く開けました。

この地方の人々は今日までもその恩をありがたがり、定之丞のために栗田神社という社を建てて、年々のお祭りを怠りません。

★ 第二十五 「人の名誉を重んぜよ」
昔伊藤東涯・荻生祖来という二人の名高い学者がありました。

祖来は常に東涯のことを褒めたり誹ったりしていましたが、東涯は少しも祖来のことをとやかく言いませんでした。

ある日東涯の弟子が祖来の書いた文を持って来て、東涯に見せました。

その場に弟子が二人居合わせましたが、これを見てひどく悪口を言いました。

東涯は静かに二人に向かって、「めいめい考えが違っても、軽々しく悪口を言うものではない。ましてこの文は立派な物で、外の人はとても及ばないであろう。」と言って聞かせたので、弟子どもは深く恥じ入りました。

★ 第二十六 「人は万物の長」
人は万物の長と申します。

そのわけは、草や木は自由に動くことも出来ず、鳥や獣は動くことが出来ても、人のような知識がありません。

また人には良心があって、善悪をわきまえ、悪いことをしようと思うと、良心が咎めます。

また人は世のため人のためになることをするのが務めだと知っています。

それゆえ人は万物の長と申すのであります。

万物の長と生まれた者は、徳を修め知を磨き、人の人たる道を尽くさなければなりません。

★ 第二十七 「良い日本人」
我等は常に天皇陛下の御恩を被る事の深い事を思い、忠君愛国の心を励み、皇室を尊び、法令を重んじ、国旗を大切にし、祝祭日のいわれをわきまえて、良い日本人になろうと心がけなければなりません。

日本人には忠義と孝行が一番大切な務めであります。

父母には孝行を尽くし、兄弟仲良くして互いに争うことなく、召使いとなっては主人を大切に思わなければなりません。

人に交わるには、良く礼儀を守り、他人の名誉を重んじ、公益に力を尽くし、博愛の道に努めなければなりません。

そのほか知識を広め、迷信を避け、身体を丈夫にし、克己のならわしをつけ、志を立てて自立自営の道をはかり、職務には勉励し、志を固くして事をし遂げなければなりません。

また人は万物の長であることを忘れないで、人たる道を尽くさなければなりません

2006年12月16日更新