★ 第一 「大日本帝国」 |
昔天照大神、ニニギノミコトを降ろしてこの国を治めしめ給えり。 尊の御曾孫は神武天皇にまします。 天皇御即位の年より今日に至るまで二千五百七十余年にして、御子孫世々相次ぎて天皇の御位に登らせ給えり。 世界に国は多けれども、我が大日本帝国の如く万世一系の天皇をいただくものは他に存せざるなり。 また御代々の天皇は臣民を子の如く愛し給い、我等の祖先は皆皇室を尊びて忠君愛国の道をつくせり。 我等はかかるありがたき国に生まれ、かかる尊き皇室をいただき、またかかる美風をのこせる臣民の子孫なれば、天晴れ良き日本人となりて我が帝国のためにつくさざるべからず。 |
★ 第二 「皇后陛下」 |
皇后陛下は教育の事に深く御心を用いさせ給い、さきに東京女子師範学校に みがかずば玉も鏡もなにかせん 学びの道もかくこそありけれ という御歌を賜い、また華族女学校を建てさせ給いて「金剛石」「水は器」の御歌を賜えり。 皇后陛下は我が国の産業にも御心をとどめさせ給い、かつて宮中にて蚕を養い給いしことあり。 また赤十字社事業の発達を思し召さるること深くして、日本赤十字社総会には常に行啓あらせらる。 明治三十七、八年戦役の時、皇后陛下は出征軍人の身の上を思いやり給いて御手づから包帯を造りて下し給い、また傷病者を病院に御慰問あらせられしなど、御仁徳の高きは国民の仰ぎ奉る所なり。 |
★ 第三 「忠君愛国」(その一) |
昔元の兵我が国に攻めよせたることありき。 この時九州の海岸を守りいたる勇士の中に河野通有という人ありしが、忠君愛国の心深く、故郷を出でし時、敵もし十年の内によせ来らずば我より渡り行きて合戦せんと誓いを立て、待つ事八年の久しきに及べり。 弘安四年敵船海を覆いて至れり。 通有は時こそ来れと勇み立ち、手勢を2艘の船に乗せて海上にこぎ出たり。 やがて一際目立ちたる敵の大船に近づきしに、敵は激しく矢を放ちて之を防ぐ。 通有は左の肩に傷を受けたれども事ともせず、己が船の帆柱を倒してはしごとなし敵の船に乗り移り、自ら数人を斬り伏せ、遂にその中の大将とおぼしき者を生け捕りて帰り来れり。 |
★ 第四 「忠君愛国」(その二) |
北条高時、後醍醐天皇を廃し奉らんとして大軍をつかわせり。 この時天皇を守り奉る者少なかりき。 楠木正成、天皇の召しに応じて直ちに河内より来たり、御前に出でしに、天皇は深く之を嘉し、みことのりして高時を討たしめ給う。 正成「勝負は戦の習いなれば、たまたま敗れることありとも叡慮をなやまし給うことなかれ。正成一人生きてありと聞召さば、御運必ず開かるべしと思召し給え。」と頼もしげに言上して退けり。 かくて正成は僅かの兵を以て勤王の軍を上げ、謀をめぐらせて、しばしば高時の大軍を悩ませしが、天皇の御味方をなす者次第に多く起こりて、遂に高時を打滅したり。 天皇隠岐より都に帰り給う時、道に正成を召して大いにその功を褒め、やがて正成に命じて御車の前駆をなさしめ、めでたく都に入らせ給えり。 |
★ 第五 「仁と勇」 |
加藤清正は仁と勇とを兼ねたる大将なりき。 豊臣秀吉の朝鮮を征伐せし時、清正先手の大将として朝鮮に攻め入りたり。 会寧府の城にあるもの二人の、王子を縛りて清正に降参せしに清正はその縄を解き、あつくこれをもてなしたり。 明国のもの清正の武勇を聞きて大いに恐れ、使いを使わして清正に説き、「明国の皇帝四十万の大兵を出して、すでに日本軍をほろぼしたれば、汝も二人の王子を返して国に帰れ、しからずば汝が軍を打ち破らん。」と言う。 清正「汝が国の大軍きたらんにはわれこれを皆殺しにし、かの二王子のごとく汝が国の皇帝をもとらえん。」と少しも恐れず答えたり。 |
★ 第六 「信義を重んぜよ」 |
清正はまた信義の心強き人なりき。 秀吉の二度目の、朝鮮征伐の時、浅野幸長蔚山の城にありしに、明国の大兵来たり攻む。 城中の兵少なき上敵の攻めること激しく、日に増し危うくなりしかば、幸長使いを清正のもとにつかわして救いをこわしむ。 清正これを聞き、「われ日本国を発せしとき、幸長の父長政くれぐれも幸長のことを我にたのみ、我もまたその頼みを引き受けたり。今もし幸長の危うきを見て救わずば、われ何の面目ありて再び長政にあわんや。」と直ちに部下のものを率いて蔚山の城に入り、幸長と力を合わせて立てこもりたり。 格言 義を見てせざるは勇なきなり。 |
★ 第七 「誠実」 |
清正はまた誠実なる人なりき。 石田三成等の讒言によりて秀吉の怒をうけ、朝鮮より召し帰されてつつしみいたり。 ある夜伏見に大地震あり、清正、秀吉の身を気遣い、部下のものを率いて、真っ先に城に駆けつけ、夜のあくるまでその門を守りたり。 これより秀吉の怒りとけ、その罪無きことも明らかになれり。 秀吉薨じて後、その子秀頼幼かりしかば、徳川家康の勢い盛んになり、豊臣氏の恩を受けしものも次第に家康につきて、秀頼を顧みるもの少なかりき。 されど清正は常に良く秀頼に仕え、大阪を過ぐる毎に必ず秀頼の安否を訪ねたり。 ある時秀頼京都に至りて家康に会えり。 この時清正は秀頼の身を護りて、しばしの間もそのそばを離れず。 さて無事に帰りし後、「今日いささか太閤の恩に報いることを得たり。」と言えり。 |
★ 第八 「油断するなかれ」 |
清正、秀吉の召しによりて朝鮮より日本に帰ろうとし、途中密陽の城を過ぎたり。 この城を守りたる戸田勝隆は清正の友なれば大いに喜び、重臣を使わして清正を道に出迎えしむ。 出迎えの者は羽織・袴にて行きしに、清正主従はいずれも甲冑をつけて戦場にのぞむが如き様にて来れり。 清正やがて城に入り、座敷に入ろうとして腰に着けたる袋を降ろしたり。 見れば中には米・味噌銭などを入れたり。 勝隆あやしみて「このあたりは敵もあらざるに何とてかくは給うぞ。」と問う。 清正答えて「とかく事の破れは油断より起こるものなり。まして我に少しの油断あらば士卒の心ゆるみて急の役に立たざるに至るべし。之を恐れてかくはするなり。」と言えり。 格言 油断大敵。 |
★ 第九 「志を固くせよ」 |
上杉鷹山は秋月家より入り上杉家を継ぎて米沢藩主となりたる人にして、心を政治に用い賢君の誉れ高かりき。 鷹山の藩主となりし頃は、上杉家の借財はなはだ多く、いかにも困難の有様なりしが、鷹山はこのままにして家の滅ぶるを待つべきにあらずと思い、倹約をもととして家を立てなおさんと志したり。 されど藩士の中には鷹山に服せずして、「鷹山は小藩に育ちたれば大藩のふりあいを知らず。」など言いてそしる者もありしが、鷹山は少しもその志を動かさざりき。 為せばなる為さねばならぬ何事も ならぬは人の為さぬなりけり |
★ 第十 「倹約」 |
鷹山は令を出して倹約を進めしが、自らまずこれを実行せんとて、大いに衣食の料などを減じたり。 鷹山の側役のものの父、ある時在方に赴きて知り合いの人の家に泊まりたることあり。 その人風呂に入らんとして着物を脱ぎしが、粗末なる木綿の襦袢のみは丁寧に屏風にかけおきたり。 主人あやしみてそのわけを尋ねしに、「この襦袢は藩主の召されたるものにてわが子にたまわりしをさらに我のもらいしものなればかくはするなり。」と答えたり。 主人はこれを聞きて深く鷹山の倹約に感じ、その襦袢を示して家内の人々を戒めたり。 格言 倹を尊ぶは福を開くの源。 |
★ 第十一 「産業を興せ」 |
鷹山は産業を興して領内を富ましめんとはかり、新たに荒れ地を開いて農業を営まんとする者には農具料種籾等を与え、三年の間租税を免じたり。 また村々に令して馬を飼わせ馬市を開きなどして農業を勤める上の助けとしたり。 鷹山はまた養蚕をも進めしかど、領内の民貧しくて桑を植えることあたわざるもの多かりしにより己の衣食の料の中より年々五十両ずつを出し、その中にて桑の苗木を買い上げて分かち与え、または桑畑を開く者に貸し付けてその業を励ましたり。 なお鷹山は奥向にて蚕を飼わせ、絹・紬を織らせなどしたりしが、更に領内の女子に職業を与えんと思い、越後より機織りに巧みなるものを雇い入れてその法を教えしめたり。 これ世に名高き米沢織りの初めなり。 |
★ 第十二 「孝行」 |
鷹山はまた孝行の心深き人なりき。 常に養父重定のもとに行きて安否を尋ね、その喜ばしき顔を見るを楽しみとし、重定の没するまで少しも怠ることなかりき。 ある時重定はその屋敷の庭を広げて面白く造ろうと思いしが、上下ともに倹約を守るおりからとて、遠慮して見合わせたり。 鷹山これを聞き、「御老年のお慰みこれにますものなかるべし。」とて、人夫を使わして重定の心のままに造らしめたり。 またある時鷹山、重定を招待し、領内の老人を集めて料理を与えしことありしが、付き添い来たりし子や孫の睦ましげに老人に給仕する様を見て深く感心し、これより重定を招く時は常に自ら給仕して仕えることとせり。 |
★ 第十三 「兄弟」 |
伊藤小左衛門は伊勢室山町の人にして味噌・醤油を造るを家業とせり。 小左衛門に三人の弟ありしが、互いに心を合わせて家業に励み、室山味噌の名をして世に高らしめたり。 ある年大地震ありてその倉多くはつぶれ、加うるに雨長く降り続きしため、味噌・醤油の類ほとんど皆腐りて家運にわかに傾けり。 世人はいずれも「室山の味噌屋とて、もとの身代に復すること難しからん。」と思えり。 されど小左衛門は三人の弟にはかり、人手をからず3年を期して家運を建て直さんと兄弟任を分かちて働き、日夜怠らざりしかば、期に先立ちて優れる倉を建てることを得たり。 その後小左衛門は製茶・製糸等の業を営みしが、常に兄弟力を合わせ合い助けて業に励みしかば、家門ますます栄えるに至れり。 |
★ 第十四 「進取の気象」 |
横浜の港開けたる頃、小左衛門は外国にて茶・生糸を要する事多きを知りて製茶・製糸の業をはじめたり。 小左衛門まず自ら茶畑を開きて試みに茶の実を蒔き、培養の方法を研究して大いに発明する所あり。 数年にして多くの茶を製するに至れり。 またその地方の人々にも製茶の利あることを説きて、茶の木を植えることを勧めたり。 小左衛門また桑の苗木を己が畑に植え蚕を養い、初めは手繰りにより後には機械を用いて生糸を製せしが、その品質不良にして損失を招けり。 小左衛門更に機械を改良しその数を増して業に励みしかども、品質なお不良にして更に損失を重ねたり。 されど進取の気象に富める小左衛門の事とて少しも之に屈せず、別に新たなる機械を備え、また親類の者を上野の富岡に使わして製糸の方法を習わしめ、心を専らにして改良を加えしかば、遂に外国商人等もその品質の良きを褒め、名声大いに高まるに至れり。 |
★ 第十五 「忍耐」 |
アメリカ発見によりて名高きコロンブスはイタリアの人にて十四歳の頃より船乗りとなれり。 ある時種々の記録等によりて研究し、大地は水と陸とよりなりてその形たまのごときものなるべく、ヨーロッパより西に向かいて進み行く時はアジアの東に達することを得べしと考えたり。 されど当時にありては、誰一人之を信ずる者なく、かえってあざけり笑うのみなりき。 されどコロンブスは少しも屈せず、熱心に研究を積みて、ますます己の信ずる所をかたくせり。 さて之を実行せんとせしかど、家極めて貧しく、資金を得るの道なくして多年その志を遂げることを得ざりしに、イスパニアの皇后イサベラに知られ、その助けを得て、3艘の船を以てイスパニアを出帆することとなれり。 かくて大西洋を西へ西へと進みしが、日数経れども、陸地の影だに見えざれば、水夫は大いに恐れを抱き、引き返さんことをコロンブスに迫り、その聞かざるを見て、コロンブスを海中に沈めんとはかりしものさえあるにいたれり。 忍耐の心強きコロンブスのことなれば騒げる水夫をある日は慰め、ある日は脅し、百万艱苦を凌ぎて進み行きしが、七十日の後ついに新しき島を発見せり。 これすなわち今のサンサルバドル島なり。 |
★ 第十六 「礼儀」 |
人は常に礼儀を守らざるべからず。 礼儀を守らざれば人をして不快の念をいだかしめまた己の品位を損ずるものなり。 されば言語・挙動を慎み、、身なりを整え、食事の際不作法に流れず、戸・障子の開け閉てなどを荒々しくせざらんことを要す。 汽車・汽船などに乗りたる時無礼なる振る舞いや、卑しき言葉遣いをなし、集会場・停車場その他人の込み合う場所にて人を押しのけて進み、また通行人等に対しその身なりや様子を指差し笑い悪口するなどは、いずれも悪しき行なり。 |
★ 第十七 「習慣」 |
善き習慣をつくらんがためには常に自ら省み、良き行いを努めて悪しき行を避けるべし。 瀧鶴臺の妻、ある日袂より赤き手毬を落としたり。 鶴臺あやしみてたずねしに、妻は顔を赤らめて言うよう、「われ愚かにして過ち多し。さればこれを少なくせんと思い、赤き毬と白き毬とを造り袂に入れ置き、悪しき心起こる時は赤き毬に糸を巻き添え、良き心起これば白き毬に糸を添えたり。はじめの程は赤き方のみ大きくなりしが、今は二つとも同じほどの大きさとなりたり。されど白き鞠の赤き鞠より大きくならざることを恥ずかしく思うなり。」と言い、さらに白き毬を出して鶴臺に示せり。 鶴臺の妻の如きは善き習慣を造る事に工夫をこらしたる者というべし。 自ら省みて善き行いを努めるは初めは苦しくとも、習慣となればさほどに感ぜざるに至るものなり。 松平定信幕府の老中となりし時、上下共に驕りの風をなすことを禁じ、自ら先んじて倹約をなせり。 人々之を評して、「定信こそ身にとりて苦しからめ。」と言う。 定信之を聞き、「否、我は幼き時より衣食すら心のままならず育ちたれば、今倹約を行えども少しも辛き事為し。」と言えりとぞ。 格言 習、性となる。 |
★ 第十八 「勉学」 |
新井白石は9歳の時より日課を立て、日の中は三千字、夜は千字を習うことを定めとせり。 冬は日短くして、課業未だ終わらざるに日の暮れんとすること度々なりしかば、西向きなる竹縁の上に机を持ち出して、ようよう書き終わりたり。 また夜は眠気さしてたえ難かりければ、二桶の水を用意しおき、いたく睡の催せる時、衣服を脱ぎ、一桶の水をかぶりて字を習い続け、程すぎて身暖になりまた睡の催し来る時、他の一桶の水をかぶりて遂にその課業を終わりたり。 白石はまた撃剣を学びしが、勉強のしるしありて速に上達し、ある時己より年上なる少年と三度し合いて皆勝つことを得たり。 また書物を読み習うに定まりたる師なく、唯字引によりて独習せしのみなりきという。 |
★ 第十九 「盟友」 |
白石の師木下順庵、白石を加賀侯にすすめんと思いて、その由を白石に告げたり。 同じ門に加賀の生まれにて岡島石梁という人ありしが、之を聞き「加賀には年老いたる我が母のおわするあり。我もし先生のすすめによりて加賀侯に仕えることを得たら一生の願い足らん。」と言う。 白石直ちに順庵のもとに至り、「我の仕えるは何れの地にてもよろしければ加賀には岡島をすすめ給え。」と言いしに、順庵は深くその友情の厚きに感心し、やがて岡島を加賀にすすめたり。 後2年にして白石は順庵にすすめられて甲斐侯に仕えしが、侯は後に将軍となり白石為に重く用いられて大功を立てたり。 |
★ 第二十 「主人と召使」 |
中江藤樹は近江の小川村の人なり。 幼より祖父の家に養われ、その後を継ぎて伊予の加藤氏につかえしが、故郷にある母を養わんがため、つかえをやめて小川村に帰れり。 この時伊予より一人の召使い従いきたれり。 されど藤樹は家貧しくしてこれを雇いおくことあたわず、よりて己がもてるわずかばかりの銭の中よりその過半を分かち与え、「故郷に帰り商売をなして生計をたつべし。」という。 召使いは「お志はまことにうれしけれども、われはいささかも金銭を受けんとは思わず、ただいつまでも仕えて艱難をともにせんことを願うなり。」と答えた。 藤樹はその心をあわれとは思いしが、せんかたなくあつくこれをさとしたれば、召使いも涙を流して帰りゆけり。 |
★ 第二十一 「徳行」 |
藤樹は貧しき中に老母に仕えて孝行を尽くし、また常に学問にはげみ、ついに名高き学者となりたり。 されば遠き所より来たりて学ぶ者も多く、文字を知らざるものまでもその徳に化せられ、人みな近江聖人ととなえて敬いたり。 その死後多くの年月を経たけれども、村民今なおその徳を慕いて年々の祭りを怠らず。 ある年一人の武士、小川村のほとりをすぎ藤樹の墓をたずねんとて、畑を耕せる農夫にその道を尋ねたり。 農夫は自ら案内すべしとて、先に立ちて行きしが、途中にて己が家に立ち寄り、衣服をあらため羽織を着て出で来れり。 武士は心の中に我を敬うがためにかくするならんと思いしが、藤樹の墓にいたりし時、かの農夫、垣の戸をひらきて武士をその中に入らしめ、おのれは戸の外にひざまづきて拝したり。 武士はここにはじめてさきに農夫の衣服をあらためしは藤樹を敬うためなりしことをさとり、深く心に感じ、ねんごろに墓を拝して去りたりとぞ。 |
★ 第二十二 「度量」 |
藤原行成は一条天皇の御代の人なり。 ある時宮中にて藤原実方と事を論ぜしに実方怒りて行成の冠を打落し、之を小庭に投げ捨てたり。 人々いかになり行かんかと心配して見居たるに、行成は騒げる色もなく人を呼びて冠を取り寄せもとの如くかむり、静かに実方に向かいて、「如何なればかくは折檻せさせ給うぞ。その故を承りてとも角も仕らん。」と言いしに、実方は大いに恥じてその座にたえず、そのまま退出せり。 天皇はこの様を御覧じ給い、行成は器量すぐれたる者なりとて、やがて高き役を仰せつけ給えり。 |
★ 第二十三 「謝恩」 |
豊臣秀吉の夫人は織田信長の足軽なりし人の娘なりき。 伊藤右近という人、夫人の生まれし時より親切に世話し、ようやく長ずるに及び、また世話して諸方に奉公せしめたり。 その頃秀吉は木下藤吉郎と言いて軽き身分なりしが、夫人を妻にもらわんとて、その事を言入れしに、右近は夫人のために支度を整えて、藤吉郎と結婚せしめたり。 その後藤吉郎は立身して太閤秀吉と仰がれる身となりしが、右近を尋ねだして大阪城に来らしむ。 右近夫婦城内に至りし時、秀吉、夫人と共に懇ろに之を労り、涙を流して恩を謝し夫人手づから多くの物を持ち出でて与えたり。 この時夫人は右近夫婦のそばにより、「お身等の綿入れ汚れたれば、我洗濯してまいらせん。」と言い、別に衣類を出して着替えしむ。 十日ほど過ぎて右近夫婦を招き、「さきの洗濯出来たり。」とて夫人自ら持ち出でて之を渡し、やがて右近に禄を与えて大阪に留まらしめたり。 |
★ 第二十四 「廉潔」 |
小島蕉薗、ある時役人となりて甲斐に赴きたり。 甲斐の風俗は荒々しくて治め難しとの評ありしか、蕉薗ひたすら人民のためをはかりて治めしかば、人民いずれも蕉薗に喜び服せり。 数年の後、蕉薗その職を辞めて江戸に帰れり。 これより医を学びてこれを業とせしが、家貧しくして居る所僅かに風日をおおうに過ぎしかど、母に事へてひとえに孝養を尽くせり。 甲斐の人々蕉薗の貧しく暮らせるよしを聞き、相はかりて百両の金を集め、之を贈らんとて総代三人江戸に来たり、蕉薗の家を訪いしに、たまたま留守なりしかば、その金を蕉薗の母に託して旅宿に帰れり。 明日三人の者再び行きて訪いしに、蕉薗は酒食を用意して厚くもてなし、さてかの金を出して、「厚意謝するに言葉なし。されどさきに我のなせし所は官命によりたるものなれば、私にその報いを受けるべきいわれなし。かつ我には定まれる業あり、貧しけれども飢えるに至らず。幸いに深くうれうることなかれ。」と言いて返したり。 三人は言葉を尽くして勧めたれども、蕉薗かたく辞して受けざれば、せんかたなくして立ち帰れり。 かくて村民にその由を告げしに、いずれもますますその廉潔なる志に感じ、その金にて蕉薗の為に社を建て、死後も永く之を祀りたり。 格言 不義の富貴は浮雲の如し。 |
★ 第二十五 「博愛」 |
紀伊の水夫虎吉という者らは、江戸よりの帰途、暴風にふき流され、2ヶ月ばかりも大洋に漂っていました。 その間に貯えの食物も尽きて、非常なる難儀にあえり。 たまたま北アメリカ合衆国の捕鯨船この海上に来たりて之を見つけ、直ちに虎吉らを救い己が船に乗りうつらしめて、親切に労りたり。 かくてその船長は便船に託して虎吉等を香港まで送り届けしが、そこには日本人にて仕立屋を業とする者あり、心を尽くして世話し、またフランスの船に頼んで上海まで送ってくれました。 これより虎吉等は清国官吏等の保護を受け、更に便船に乗って我が国に帰ることが出来ました。 我が国にても外国船の吹き流されて漂い来たりし時、之に食物を与え厚く世話して国に帰らしめること度々ありき。 凡そ知ると知らざるとを問わず博く世間の人を愛するは人の道なり。 たとい敵国の人にても、傷病に悩み瀕死の苦を為す者を助けるは、博愛の道にかなうものとす。 明治三十七、八年戦役に上村艦隊が敵艦リューリクを打ち沈めし時、敵の溺死せんとする者六百余人を救い上げたるは極めて名高き美談なり。 |
★ 第二十六 「生き物を憐れめ」 |
昔木曾山中に孫兵衛という馬子ありき。 ある時一人の僧その馬に乗りしに、道の悪しき所に至る毎に、孫兵衛は「親方あぶなしあぶなし。」と言いて馬を助けたり。 この僧あやしみてそのわけを尋ねしに孫兵衛答えて、「我等親子四人この馬に助けられて活計を立てる故、親方と思いてかくはいたわるなり。」と言えり。 やがて約束の所に至りて僧は賃銭を渡せしに、孫兵衛はその中にて餅を買いて馬に食わせ、また己が家の前に至りし時、孫兵衛の妻直ちに出で来たりて、馬に秣を与えたり。 僧は之を見て孫兵衛夫婦の心がけの良きことに感じたりという。 |
★ 第二十七 「女子の務」 |
三宅尚齋ある時藩主の旨にさからいてとらわれの身となりたり。 尚齋家を出ずるにのぞみ、その妻に母及び二人の子の事を頼み、奉養の為にとて金二十両を渡せり。 妻は留守を預かりて心細く暮らせしが、これより倹約を守りて己が衣食を薄くし、暇あれば人のために裁縫・洗濯をなし、これによりてよく姑に事へ、またその子供を養育したり。 三年の後尚齋赦されて家に帰れり。 この時妻はさきの二十両を出して返せしに、尚齋之を見て大いに怒り、「かくては母の奉養を怠りしならん。」と言う。 妻は静かに留守中のことを語りて、「母君を養いまいらせし費用は我自らこれを弁じたり。この金は御身が帰り給う時の用にあてんとて残しおきたるなり。」と言いしかば、尚齋は深く妻の労を謝したり。 |
★ 第二十八 「良き日本人」 |
我が国民は万世一系の天皇を戴き、克く忠に克く孝に、数千年来の美風をなせり。 我等臣民たる者は常に天皇陛下・皇后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、祖先の志を継ぎて忠君愛国の道に励まざるべからず。 父母には孝行を尽くしてその心を慰め安んじ、兄弟互いに力を合わせて家門の繁栄をはかり、主人は召使いを憐れみ、召使いは主人を大切に思うべし。 人と交わりては信義を重んじ、礼儀を守り、人より受けたる恩を忘れず、度量を大きくすべし。 殊に盟友には親切に交わるべし。 世に立ちては産業を興して公益を図り、また博く世間の人を愛すべし。 人は常に誠実なるべし。 仁且つ勇にして進取の気象に富み、廉潔にして倹約を守り、志を堅くし、油断をなさず、良く忍耐すべし。 常に、知識を広め、徳行を重んじ、良き習慣を作り、生き物を憐れむべし。 また女子は女子の務めの大切なることを心得おくべし。 これ等の心得を守るは明治二十三年十月三十日に下し賜りし勅語の御趣旨にかない奉ることとなるなり。 されば人々勅語の御趣旨を深く心に銘じて良き日本人とならんことに努むべし。 |
2006年12月20日更新