★ 第一 「皇大神宮」
皇大神宮は皇祖天照大神をいつきまつれる御宮にして、伊勢の宇治山田市にあり。

神域は神路山のふもとにて五十鈴川にそえる絶塵の地なり。

ここに入る者誰が神威の尊厳に感じて襟を正さざらん。

朝廷の皇大神宮を御尊崇あらせらるること一方ならず、皇室及び国家に大事ある時は天皇陛下之を皇大神宮に御親告あらせ給い、毎年の政始には先ず神宮の御事を奏せしめ給う。

また祈年祭・神嘗祭・新嘗祭には勅使を差し立てて幣帛を捧げさせ給う。

勅使を差し立て給う時には、天皇陛下親しく幣物を御覧あらせられて、御祭文を勅使に授け給い、かくて勅使の退くまでは入御せさせ給わず、また神嘗祭の当日にはおごそかに御遙拝の式を行わせ給うとの御事なり。

神宮の宮殿は二十年毎に御造営あらせらるる御定にて、おごそかなる正遷宮の御儀式を行わせ給う。

陛下は御遷宮の御事に深く大御心を用いさせ給い、その工事等につきて詳しく書きて奉らせ、一々叡覧あらせ給うよしもれ承る。

皇大神宮の尊厳たぐいなきは陛下のかく深く御尊崇あらせらるることによりても知らるるなり。

我等臣民たる者は常に皇大神宮を尊崇し、天壌無窮の皇運を扶翼し奉らんと心掛くべきなり。

★ 第二 「天皇陛下」
天皇陛下は御年十六にして御位をつがせたまいしが、幾ばくもなくして幕府を廃し、親ら大政を聴かせ給いて、まず左の五カ条を天神地祇に誓わせられて之を群臣に宜し給えり。

一 広く会議を興し万機公論に決すべし

一 上下心を一にして盛んに経綸を行うべし

一 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ人心をして倦まさらしめんことを要す

一 旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし

一 智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

我が国未曾有の変革を為さんとし朕身を以て衆に先んじ天地神明に誓い大にこの国是を定め万民保全の道を立たんとす衆またこの趣旨に基づき協心努力せよ

ついで明治と改元し、やがて京都より東京に移らせ給い、御誓文の御趣意を以て大政を行わせ給いしかば、我が国運年を逐いて隆盛に赴きたり。

★ 第三 「天皇陛下」(つづき)
天皇陛下は常に教育に大御心を用いさせられ、明治五年に学制を公布せしめたまい、二十三年には教育に関する勅語を下したまえり。

今やほとんどゆうに不学の戸なく家に不学の人なく、文運日にますます盛んなるに至りしは実に陛下御盛徳のしからしむる所なり。

天皇陛下はまた軍事に大御心を用いさせられ、明治六年に徴兵令を公布せしめたまい、十五年には陸海軍人に勅諭を下したまえり。

明治二十七、八年戦役の際にも、明治三十七、八年戦役の際にも、我が軍人が大いなる武功をあらわして帝国の誉れを海外にかがやかしたるは、これまた実に陛下の御盛徳によれり。

★ 第四 「天皇陛下」(つづき)
天皇陛下は明治二十二年国家統治の大法たる皇室典範及び大日本帝国憲法を制定せられ、二十三年より帝国議会を開きたまえり。

これ我が国開闢以来未曾有の盛事在なりとす。

陛下の大御代となりてより国勢日にますます盛んになり、諸外国との交際親密を加え、帝国の威望ようやく世界に重きをなすに至れり。

我が国の版図が陛下の大御代において遠く南北に広がり、また韓国併合によりてアジア大陸にも及べるは、まことに盛んなりというべし。

我が大日本帝国の国運がかくも大いなる進歩をなすにいたりしは、一に天皇陛下の御威徳に基づくなり。

我等がかかるめでたき大御代に生まれ、かかる深き皇恩に浴するは、何たる幸福ぞや。

我等はよく帝国臣民たるの本分をつくして皇恩の万一に報い奉るべきなり。

★ 第五 「天皇陛下」(つづき)
天皇陛下は日々表御座所に出御ありて百般の政務を聖断あらせられ、重大なる事項ある時は夜更くるまでも御寝あらせ給わざることありと承る。

御励精の程畏しことも畏し。

さきに皇室典範・大日本帝国憲法の草案枢密院の会議に付せられたる時、数ヶ月の久しきに亘り、折からの炎暑をも厭わせられず、連日臨御ありて討議に御耳を傾けさせ給えり。

たまたま昭宮殿下死去の御事あり、議長は驚きて議事を中止せんとせしに、陛下は「それには及ばず。」とて議事を続けさせ給いしは畏きことの極みなり。

陛下は至仁至慈にわたらせられて我等臣民を憐ませ給う。

天災地変等ある時は侍従を遣わされて臣民の疾苦をなぐさめ、また御救恤金を下し賜り。

また明治三十年英照皇太后の大喪にあたり、慈恵救済の資として御内ど金四十万円を各地方に分賜せられたり。

更に同四十四年二月十一日紀元節の当日、無告の窮民の医薬給せずして天寿を全うせざることを深く憐ませ給い、御内ど金百五十万円を賜いて施薬救療の資とさせ給えり。

我等臣民たる者いかんぞ大御心の有り難きに感泣せざらんや。

★ 第六 「忠君愛国」
明治三十七、八年戦役は我が大日本帝国がロシアと戦いて威名を世界に輝かしたる大戦争なり。

明治三十七年二月宣戦の詔下るや、国民は一に聖旨を奉体して報告の誠を尽くさんことを期せり。

陸海軍人は寒暑をおかし苦難をしのぎて勇戦し、或いは弾雨の中に平然としてその任務を尽くし、或いは負傷すれども後送せらるることを否みて飽くまで戦場に立たんことを願いしなど、忠誠勇武なる美談甚だ多し。

国民はいずれも勤倹を事として多大なる戦費を負担し、進んで恤兵事業、軍人家族の救護、戦死者遺族の慰藉等に力を尽くしたり。

特に出征者の妻が心を励まして一家の事に当たり、夫をして後顧の憂なからしめ、高き身分の婦人が或いは手ずから包帯を製し、或いは篤志看護婦となりて救療の事に当たりしが如きは、女子として戦時の務めを尽くしたるものなり。

御製

 国を思う道に二つはなかりけり 軍のにわに立つも立たぬも

★ 第七 「忠孝」
北条氏滅び後醍醐天皇都にかえらせ給いしが、幾ばくもなくして足利尊氏叛きたり。

楠木正成等勅を奉じて之を討ち、尊氏を九州に追い払いたり。

その後尊氏九州より大軍を率いて都に攻め上がらんとする由聞こえしかば、天皇は正成等を遣わして之を兵庫にふせがしめ給う。

正成この度の戦には生きてかえり難しと思い、途中櫻井の駅にてその子正行に向かい、「我死すとも汝は我が志をつぎて必ず君に忠義を尽くし奉れ。これ汝が我に尽くす第一の孝行なり。」と懇ろに諭して河内に返し遣わしたり。

この時正行は十一歳なりき。

正行帰りて家にありしが、父の戦死をききて深く之を歎き、一間に入りて自殺せんとす。

正行の母之をとどめ、「父の汝をかえし給いしは腹を切れとの為にはあらず、父に代わりて軍を起こし、君の御為に尽くし奉らしめん為にあらずや。」と言いて戒めたり。

これより正行は父の遺言と母の教訓とを守りて、一日も忠義の念を失うことなく、ようやく成人して、後村上天皇に仕え奉り、度々戦功を立てたり。

尊氏の将高師直等来たり攻むるに及び、正行は弟正時等と吉野に至りて天皇に御暇乞いを申し上げ、また後醍醐天皇の御廟を拝し奉り、如意輪堂の壁板に同志の者と共に姓名を書き連ね、その末に

 かえらじとかねて思えばあづさ弓 なき数にいる名をぞとどむる

という歌をしるして出で立ちたり。

かくて四条畷に至り、花々しく戦い、兄弟さしちがえて遂に討死せり。

格言 忠臣は孝子の門に出ず。

★ 第八 「祖先と家」
我等の家は我等が祖先の経営したる所にして、我等の父母は祖先の志を継ぎて家を治めるものなり。

されば祖先を崇敬して祭祀の礼を厚くするは極めて大切なる事なり。

一家に一人不徳の者ありてもその家の不名誉を来すものなれば、一家の人々互いに本分を守り品行を慎みて、その家の名誉と繁栄との為に力を尽くし、以て祖先の名を顕さんことに心掛けるべし。

昔上化野形名蝦夷の為に囲まれ、計尽きて逃れ去らんとせし時、その妻、夫を諫めて「良人の祖先は武勲を以て家名を揚げ給えり。今難に臨みて逃れ、祖先の名を汚すは恥ずべきなり。」といえり。

我等は常に家を重んじ、祖先に対しては立派なる祖先となるよう努むべきなり。

★ 第九 「沈勇」
明治四十三年四月十五日呉海軍鎮守府に属する第一潜水隊が周防新湊沖にて潜航演習中、第六潜水艇は不幸にも沈没し、佐久間艇長以下十四人の乗員尽くその職に殉せり。

初め第六潜水艇の潜航をはじむるや、少時にして機械部に損傷を生じ、海水侵し入り、艇は傾斜して次第に沈み行けり。

佐久間艇長は直ちに部下に令して応急の手段を取りたれども、遂に浮揚するに至らず、悪ガスさえ発して呼吸困難となり。

今は万事休するの様となれり。

この時艇長は司令塔にありて、僅かに海面より水を透かして来れる微光により、鉛筆にて手帳に遺言を認めたり。

遺書には先ず艇を沈め部下を死に致すの申し訳なきことを言い、部下の将卒が死に至るまでよく職に尽くしたる次第を述べたり。

次にこの異変によりて潜水艇の発展を妨げられんことをおもんばかりて、特に詳細に沈没の原因と情況とを書き記したり。

次に部下の遺族の窮するあらんことを深く顧慮し、更に上官・先輩・恩師・友人に告別し、最後に時は十二時四十分なることを註して筆を止めたり。

この遺書は艇の引き揚げられたる時佐久間艇長の着衣のうちより出でたるものにて、その沈勇にして職責を重んじ情誼に厚きには、見るもの誰か悲壮の感を起こさざらん。

格言 人事を尽くして天命を待つ。

★ 第十 「胆力を養え」
高田屋嘉兵衛は淡路の人なり。

幼きときより船頭の雇人となり、後摂津の兵庫にて廻船業を営み、やや富裕の身となりたり。

このころロシア人の千島に入り込む者ある由聞こえしかば、幕府はこの地方に役人を遣わさんとし、特に国後・択捉への航路を開かんとて、熟練なる船頭を募りしが、北海の風波はげしくまた寒気厳しければ、誰一人之に応ずる者なかりき。

嘉兵衛もと勇気に富みて胆力ありしかば、進んでその募に応ぜり。

かくて嘉兵衛は先ず国後島に至り、更に択捉島に航せんとし、百方苦心して海上の模様を調べしが、遂に意を決し、自ら水夫を督し、その定めたる航路をとりて択捉島に向かえり。

水夫等は深く危険を気遣いしかども、嘉兵衛は少しも恐れず、船を進めて、無事に択捉島に着くことを得たり。

やがて島内を視察したる後、帰路に就き、海路おだやかに国後島に着きて、幕府の役人にこの航路の安全なることを報告せり。

時に年31歳なりき。

その後嘉兵衛は幕府の命を受けて択捉島に渡り、土民に産業を授け、所々に漁場を開きてその業を励ましたり。

★ 第十一 「胆力を養え」(続き)
ある年ロシア人樺太・択捉にきたりて掠奪をなせり。

よってその後ロシアの軍艦が国後島近海に来たりし時、幕府の役人はその艦長ゴロブニン等を捕らえたり。

副長リコルドこれを憂え、ゴロブニンの安否をたださんため日本人をとらえんと待ちいたり。

たまたま嘉兵衛は国後島の辺りを航行せしに、ロシアの船ふいにきたりて嘉兵衛を捕らえ、その本船に連れ行きたり。

本船には七十余人の兵士ありてみな銃を携えて並びいたりしが、嘉兵衛その間を通りて少しも恐れる色無し。

やがてリコルドに面会せしが、ついにカムチャッカにつれゆかれたり。

嘉兵衛は我が国とロシアとの間の紛争を解かんと思い、先ずロシア語を学びたり。

ある日リコルドと語りて、我が国にきたりて掠奪をなしたるはロシアの暴民の仕業にしてロシア政府のあずからざることなりと聞き、リコルドに説きて、「幕府にその事を弁解して謝すべし。」といいしに、リコルドは大いに之を喜びたり。

是に於いてリコルドは嘉兵衛とともに函館にいたれり。

嘉兵衛はロシア人と幕府との間に立ちて周旋し、ロシアよりはさきの掠奪を謝せしめ、我が国よりはゴロブニン等をかえさしめて、長くむすばれたる両国間の争いを解きたり。

★ 第十二 「自立自営」
フランクリンは、今より二百年程前北アメリカのボストン市に生まれたる人にして、最も自立自営の心に富みたりき。

その家貧しき上に兄弟多かりしかば、十歳の時学校を退き家業の手助けを成したり。

されど学問を好む心深く、小遣銭を蓄えおきて書物を買い、暇ある毎にこれを読みたり。

十二歳の時より兄の許にて印刷業の職工となり、良く働きてやがて一人前の仕事を成すにいたれり。

その頃、懇意なる人より種々の書物を借り受け、昼の仕事を終えたる後之を読むを楽しみとせり。

十六歳の時自炊して生活の費用を節約し、有益なる書物を買い、僅かの時間をも惜しみてこれを読めり。

されば職業を励みし間にも、学識次第に進みて、遂に世に名高き人となりたり。

格言 天は自ら助くる者を助く。

★ 第十三 「規律正しくあれ」
フランクリンは規律正しき生活を成すことを大切なりとし、次の如き時間割を定めてこれを守りたり。

朝は五時に起きて顔を洗い、それより八時までの間にはその日の仕事を考え、その日為すべき事を決定し、現に従事せる研究を成し、朝飯を食す。

八時より正午までは仕事を続け、正午より午後二時までの間には書を読みまたは金銭の出入りを調べ、昼飯を食す。

二時より六時までは再び仕事を成し、六時より十時までの間には物事を整頓し、夕飯を食し、音楽・遊戯または談話などに時を移し、その日に行いしことにつきて反省し、十時より眠りに就く。

なお朝は今日我は如何なる善きことを為すべきかを考え、夕は今日我は如何なる善きことを為したるかを考える。

かくのごとくしてフランクリンは規律正しき生活を為すの習慣をつくりたり。

★ 第十四 「公益」
フランクリンは己が住みいたるフィラデルフィア市の知人と相談し、資金を出し合いて、図書館を設立し、世人の知識を開発せり。

フランクリンはまた新聞紙を発行したり。

その頃の新聞紙の中には他人の名誉を傷つけるがごとき記事多かりしが、フランクリンは一切かかる事を載せず、ただ世を益することのみを載せたり。

当時は消防の方法いまだ備わらず、火事あるごとに多くの家焼けて、損害おびただしかば、その予防法を調べ、之を印刷して配布し、また同志のものを集めて消防組を作り、規約を設けて之を実行せり。

これより火災の損害少なく、為に市の人々は大いなる利益を受けたり。

また当時は学校の制度も未だ整わざりしが、フランクリンは寄付金を集めて中学校を設立し、多くの少年を教育したり。

その他有益なる暦本を発行し、フィラデルフィア市の街灯を改良する等公益のために尽くせし功多く、特に電気を研究し、雷は電気の作用なることを証明し、また避雷針を発明して天下後世に公益を与えたり。

★ 第十五 「独を慎め」
我等の善きことを為し悪しきことを為さざるは人たる道を全うせんが為なり。

されば善き人とならんとするには、他人の見聞せざる所にても己が行いを慎まざるべからず。

かく独を慎むものは天地に対して豪も恥づる所なきなり。

皇后陛下の御歌に

 むらぎもの心にといて恥じざらば 世の人言はいかにありとも

とあるは我等の日常服応すべき御教えなり。

今より百二、三十年前、仙台に林子平という人ありき。

憂国の心深く、書を著して国防の急務なることを論ぜしに、幕府之を喜ばず、子平をその兄の家に幽閉せり。

子平乃ち一室の内に端座し、一歩も戸外に出づることなし。

友人之を見て「少しく遊歩して心を慰めよ。」といいしに、子平答えて「されど君の言の如くするときはこれ上を欺くなり。たとい他に知る人無しとすとも、いかでか天を恐れざらん。」とて、

 月と日の畏みなくばよりよりに 人目の關は越ゆべけれども

と詠じて遂に出でざりき。

★ 第十六 「産業に工夫を凝らせ」
久留米がすりは井上デンという婦人の初めて織りいだししものなり。

デンは幼き時より機織りを習いしが、何とぞ目新しき物を織り出さんと朝夕工夫を凝らしいたり。

ある時デン白糸を所々くくり、藍汁にて染めて、くくりたる糸をほどき去り、斑に染まりたる糸にて布を織りしに、白きかすり模様あらわれて、面白き織物となりたり。

その後益々工夫を加えてこれを改良し、ついには種々の模様あるかすりをも織り出すにいたれり。

かくて久留米がすりの名は四方に伝わり、その販路ますます広がりて今日の如く盛んになり、地方の繁栄を来たしたれば、人々その功徳を称し、デンの死後その名を千載に伝えんとて記念碑を建てたり。

★ 第十七 「慈善」
和気広虫は清麻呂の姉にて慈善の心深き人なりき。

ある年飢饉疫病ありて、人々生活に苦しみ子を捨てるもの多かりしとき、広虫深く之を憐れみ、棄児ありと聞く毎に人をやりて拾い上げしめぬ。

かくて広虫の手に養い育てられしもの八十三人に及べり。

称徳天皇之を聞き給いて深くその行を褒めさせたまえり。

慈善とは同情の念をいだきて人の困苦を救うことをいうなり。

慈善のために金銭物品を与える際には、よく注意して救済の趣意を誤らざるよう心掛けるべし。

★ 第十八 「勤勉」
伊能忠敬は上総の人なり。

十八歳にして下総佐原村なる伊能氏をつげり。

伊能氏は世世酒・醤油の醸造を業とし、富裕を以て聞こえしかど、忠敬の家をつぎし頃には家道頗る衰えいたり。

忠敬深く之を憂え、何とぞして家産を回復せんとて、その好める碁・将棋を止め学問をさえさしおきて、一意専心家業に勤勉し、家法を定め倹素を旨とし、身を以て衆を率いしかば、次第に家運を挽回し、その四十歳の頃には倍する資産を造るに至れり。

されば関東に二回の飢饉ありし際、毎回多くの金穀を出して窮民を救い官より厚く賞せられたり。

格言 精神一到何事か成らざらん。

★ 第十九 「勤勉」(つづき)
忠敬久しく家業を励みて50歳に至りぬ。

それより以後は専ら学問に従事せんとて、家をその子に譲りて江戸に出でたり。

忠敬は深く天文・暦法を好みしが、一日高橋東岡という学者を訪れてその説を聞き、西洋暦法の精密なるに感じ、遂に東岡を師として学べり。

東岡は忠敬より十九年若き人なりき。

かくて東岡の門に学ぶこと数年、観測の術に至りては同門中その右に出る者なき程になりぬ。

これより実地の測量に従事せんとて、五十六歳の時幕府の許可を得て蝦夷地に赴き、その東南沿海の測量を終え、之を図に製して幕府に上れり。

その後幕府の命を奉じて諸方の沿海を測量し、功を以て幕府の役人に挙げられ、益々力を測地製図の事に尽くし、七十二歳に及びて日本全国の測量を終え、それより大中小三種の地図を製することに力を尽くせり。

この如く忠敬は七十余歳の老齢を以てなお東西に奔走し、風雨寒暑を冒して測量に従事し、また家にありては自ら精密なる地図を製した。

★ 第二十 「迷信を避けよ」
忠敬の伊能氏の家を継ぎし頃、この家には元旦怪しき人の頭神棚に現るとの風聞ありしが、忠敬意に介せざりしかば、この風聞いつとなく止みたり。

ある時忠敬、幕府の命をうけ、測量のため出発せんとて客を会して宴を開きいたるに、梁の上に巣を造れる燕席上に落ちて死したり。

家人は之を不吉として心配せしに、忠敬笑いて「燕の落ちて死するは我に何の関係かあらん。」と言い、席を立ちて草鞋をはかんとせし時、そのひも忽ち断れたり。

忠敬また笑いて「草履の紐は金鉄ならねば時に断るることあり。」といい、別を告げて門を出でたり。

この時高き音して大いなる酒桶破裂せしかば、客も家人も重ね重ねの不吉に皆色を失い、相共に「今日の発足を止められよ。」という。

忠敬之を聞きて「酒桶の破裂するは時々あることにて何の不思議もあらず。之がために日を延べて公命をゆるかせにするいわれなし。」と言い捨てて途に上れり。

格言 智者は惑わず、勇者は恐れず。

★ 第二十一 「師を敬え」
忠敬は七十四歳にて病を以て江戸に没せり。

忠敬の師高橋東岡は忠敬に先立ちて早世せしが、忠敬没するにのぞみ、家族に命じて「我の今日あるは一に東岡先生の教えに由れり。先生の大恩今に至るまで忘るる能わず。我死なば必ず遺骸を先生の墓の側らに埋めよ。」といえり。

よりて家族はその遺命を奉じ浅草の源空寺なる東岡の墓の側らに葬りたり。

★ 第二十二 「衛生」
コレラ・ペスト・痘瘡・赤痢・腸チフス・猩紅熱・ジフテリヤ等恐るべき伝染病の流行するは、人々の衛生に関する注意の足らざるより起こること多し。

衛生のことにつきては国家も固より厳重なる取り締まりをなせども、人々、公衆の為を思いて自ら戒むる所あらずば、到底十分にその目的を達すること能わざるなり。

例えば土地・家屋の清潔方法を行うに当たり、よく掃除をなしたる如くよそおいて汚物を除くことを怠るが如きことあらば、やがて自ら病毒に襲われ、近隣もまた之が為に災厄を被るべし。

また無智迷信等によりて伝染病の蔓延を助けることあり。

例えば伝染病に罹りてその届け出を怠り、神水・祈祷等に依頼して医師に診察を請わず、病魔を退くと称して殊更に酒を飲むが如きこれなり。

人もし怠慢にして意を衛生に用いず、一朝伝染病に罹ることあるときは、自己に取りては自ら招ける禍なれども、之が為に多くの人命を傷い、産業を衰えしむに至りては、社会公衆に対してその罪大いなり。

されば我等は自ら戒め公衆の利害を慮りて常に衛生の心得を守り、かりそめにも之に背かざるように努むべきなり。

★ 第二十三 「国民の公務」
国民たるものは法令を重んぜざるべからず。

法令は国民の身体・財産・名誉・自由を保護し、公益を進め公安を保つを目的とするなり。

若し国民にして之を重んぜざるときは、社会の秩序をみだり公共の安寧を害し、遂には国家の存立を全うすること能わざるべし。

国家を防衛するは国民たるものの大切なる務めなり。

国家は我等の祖先が心を一にして守護し来れるものなれば、我等も祖先の志を継ぎて国家防衛の事に努め、他国の為に侵害せらるるが如きことあるべからず。

我が国民にして満十七歳より満四十歳に至るまでの男子は皆兵役に服する義務を有す。

兵役に服するは男子たるものの大いなる名誉なり。

租税を納めるはまた国民たるものの大切なる務めなり。

国家は陸海軍を備え各種の官署・学校を設くる等多くの費用を要す。

この費用は国家の存立にしばらくも欠くべからざるものなれば、国民たるものはいずれも之が負担を分かちて租税を納めざるべからず。

帝国議会の議員を始め、府県会・市町村会の議員等凡そ政治に参与する者を選挙するは、また国民たるものの大切なる務めなり。

選挙せらるる人の適否は国家社会の幸不幸に関係すること大いなれば、深く心を用いて適当なる人を選挙すべし。

またこれ等の議員に選挙せられたる者は一意国家公共の為に尽くし、その職責を全うすべし。

その地位を利用して私益を図り、又は選挙人の意を迎えて己が意見をまぐるが如きことあるべからず。

★ 第二十四 「男子の務と女子の務」
男子は成長の後家の主人となりて職業を務め、女子は妻となりて一家の世話をなすものにて、男子の務と女子の務とはその間に異なる所あり。

修身の教えは男女共に守るべきものなれども、特に男子は剛毅果断にして女子は温和貞淑なるをよしとす。

知識をひろむることも男女に等しく大切なることなれば、各々その分を尽くすに必要なる知識を収得すべし。

女子は男子よりも体力弱ければ、男子は女子を労るべきなり。

また世には女子を男子より劣れりと思うものあれども、大いなる心得違いなり。

女子も男子も同じく万物の長にして、ただその務めを異にするのみ。

女子が内にいて一家の世話をなし、家庭の和楽を図るはやがて一国の良風美俗を造る所以なり。

女子の母として子供を育つることの良否は、やがてその子の人となりに影響し、ひいては国家の盛衰にも関係するものなり。

されば女子も男子と同じく己が務めの大切なることを思い、常にその本分を全うせんことに心掛けるべし。

★ 第二十五 「教育」
国家を盛大ならしむるには国民の一人一人が善良有為ならざるべからず。

教育は各個人の道徳を進め、知識を増し、身体を強健ならしむるものなり。

今や我が国には至る所に学校の設ありて、身分の如何を問わず、男女の差別なくいずれも学校に入りて教育を受けることを得るなり。

我が国の臣民はその子弟満6歳に達すれば必ず之を尋常小学校に入学せしめて、その課程を卒えしめざるべからざる義務あり。

故に児童たるものの学校に入りて教育を受けるは、ただに父兄の命に従うのみにあらず、また国家に対する務めなり。

★ 第二十六 「教育に関する勅語」
天皇陛下は明治二十三年十月三十日に教育に関する勅語を下し賜いて我等の遵守すべき道徳の大綱を示させ給えり。

勅語の第一段には

朕思うに我が皇祖皇家国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり我が臣民克く忠に孝に億兆心を一にして世世厥の美を済せるはこれ我が国体の精華にして教育の淵源また実にこれに存す

と宣えり。

我が国は創建極めて古く、万世一系の天皇の治め給う所なり。

皇祖皇宗の我が国を開き給うや、その規模広大にして永遠に亘りて動くことなからしめ給えり。

また皇祖皇宗は身を正し道を行い、民を愛し教えを垂れ、以て範を万世に遺させ給えり。

而して臣民は君に忠を致し父母に孝を尽くすことを念とせざるものなく、数多き臣民皆心を協せて常に忠孝の美風を全うせり。

以上は我が国体の純且つ美なる所なり。

而して我が国教育の基づく所もまた実にこれにあるなり。

★ 第二十七 「教育に関する勅語」(つづき)
勅語の第二段に

爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し盟友相信し恭倹己を持し博愛衆に及ぼし学を修め業を習い以て智能を啓発し徳器を成就し進みて公益を広め世務を開き常に国憲を重し国法に遵い一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし是の如きは燭り朕が忠良の臣民たるのみならずまた以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん

と宣えり。

爾臣民とは畏くも陛下が直接に我等臣民に次の心得を示し給わんとて呼びかけ給えるなり。

我等臣民たるものは父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹の間は友愛を旨とし、夫婦は互いにその分を守りて相和し相助くべし。

朋友には信義を以て交わり、他の人に対しては身を慎み無礼の挙動をなさず、また常に己を検束して恣にせず、博く衆人に慈愛を及ぼすべし。

我等は学問を修め業務を習いて知識才能を進め、徳ある有為の人となり、進んで智徳を活用して公衆の利益を広め、世上有用の業務を興すべし。

また国の根本法則たる皇室典範及び大日本帝国憲法を尊重し、その他諸の法律・命令を遵奉し、もし国家に事変の起こるが如きことあらば、勇気を奮い一身を捧げて、皇室・国家の為に尽くすべし。

かくして天地と共に窮りなき皇位の御盛運を助け奉るべきなり。

以上は陛下の示し給える我等臣民の心得にして、よく之を実行するは独り陛下に対し奉りて忠良の臣民たるに止まらず、また我等の祖先の残せる美風を発揚することとなるぞとの聖旨なり。

★ 第二十八 「教育に関する勅語」(つづき)
勅語の第三段には

この道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らす之を中外に施して悖らす朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾う

と宣えり。

第二段に示されたる道は陛下が新たに設けさせ給いしにはあらずして、実に皇祖皇宗の遺させ給える御教訓なり。

されば陛下はこの道は皇祖皇宗の御子孫も一般臣民も倶に遵奉すべきものぞと宣い、ついでこの道は古も今も変わることなく、また国の内外を問わずいづくにもよく行われ得るなりと宣い、最後に陛下は御自ら我等臣民と共にこの御遺訓を遵奉し、之を実践身行し給いて、皆其の徳を同じくせんことを望ませ給えるなり。

世界に国は多しといえども、臣民と共に道徳を実行せんと宣える君主を戴くもの果たして幾ばくかある。

我等はかかる麗しき国体を有する国に生まれ、またかかる聖明なる天皇陛下を戴くことの幸福を思いて、片時も怠ることなく勅語の御趣旨を奉体せんことに努むべきなり

2006年12月20日更新