★ 第一 「皇后陛下」 |
皇后陛下はお小さい時から質素にあらせられ、また下の者をお憐れみになりました。 皇太子妃にならせられましてから、ご自身で蚕をおかいあそばしたり、戦の時には包帯をお作りになって、軍人にたまわつたりなさいました。 また皇后におなりあそばしてのちも、教育のことや産業のことにお心をとめられ、貧しいものをお憐れみになるなど、ありがたいことがたくさんございます。 |
★ 第二 「忠君愛国」 |
明治十年に熊本の城が賊軍に囲まれました。 城を守っていた谷少将は、城の中の様子を、遠方の官軍に知らせようと思い、その遣いを伍長谷村計介に言いつけました。 計介は身体にすすを塗り、破れた着物を着て、闇に紛れて城を出ました。 途中で二度も賊軍に捕らえられ、色々の難儀な目に遭いましたが、とうとう官軍の司令部について、首尾良く遣いの役目をし遂げました。 |
★ 第三 「孝行」 |
二宮金次郎は、家がたいそう貧乏であったので、小さい時から、父母の手助けをしました。 金次郎が十四の時父が亡くなりました。 母は暮らしに困って、末の子を親類へ預けましたが、その子の事を心配して毎晩良く眠りませんでした。 金次郎は母の心を思いやって、「私が一生懸命に働きますから、弟を連れ戻して下さい。」と言いました。 母は喜んでその晩すぐに親類の家へ行って、預けた子を連れて帰り、親子一緒に集まって喜び合いました。 孝は徳のはじめ。 |
★ 第四 「仕事に励め」 |
金次郎は12の時から父に代わって川普請に出ました。 仕事を済まして、家へ帰ると夜遅くまで起きて草鞋を作りました。 そうして明くる朝その草鞋を仕事場へ持って行って、「私はまだ一人前の仕事が出来ませんので、皆様のお世話になります。これはそのお礼です。」と言って人々に贈りました。 父が亡くなってからは、朝は早くから山へ行き、柴を刈り、薪を取って、それを売りました。 また夜は縄をなったり、草鞋を作ったりして良く働きました。 |
★ 第五 「学問」 |
金次郎は十六の時母を失いました。 やがて二人の弟は母の里に引き取られ、金次郎はまんべえという叔父の家へ行って、世話になりました。 金次郎は良く叔父の言いつけを守り、一日働いて、夜になると、本を読み、字を習い、算術の稽古をしました。 叔父は油がいるのを嫌って夜学を止めましたので、金次郎は自分でアブラナを作り、その種を町へ持って行って油に取り替え、毎晩勉強しました。 叔父がまた「本を読むよりは家の仕事をせよ。」と言いましたから、金次郎は夜遅くまで家の仕事をして、その後で学問をしました。 金次郎は二十歳の時自分の家に帰り、精出して働いて、後には偉い人になりました。 |
★ 第六 「整頓」 |
本居宣長はたくさんの本を持っていましたが、いちいち本箱に入れてよく整頓しておきました。 それで夜は明かりをつけなくても、思うようにどの本でも取り出すことが出来ました。 宣長はいつも家の人に向かって、「どんなものでも、それを探す時の事を思ったならば、仕舞う時に気をつけなければなりません。入れる時に少しの面倒はあっても入り用の時に、早く出せる方がよろしい。」と言って聞かせました。 |
★ 第七 「正直」 |
ある呉服屋に、正直な丁稚がありました。 ある時客の買おうとした反物に傷のあることを知らせたので、客は買うのを止めて帰りました。 主人はたいそう腹を立て、すぐに丁稚の父を呼んで「この子は自分の店では使えない。」と言いました。 父は自分の子のしたことは褒めて良いと思い、連れて帰って他の店に奉公させました。 この子はその後も正直であったので、大人になってから立派な商人になりました。 それに引き換えて、先の呉服屋はだんだん衰えました。 |
★ 第八 「師を敬え」 |
上杉鷹山は細井平洲を先生にして、学問をしました。 ある年平洲を江戸から米沢へ招きました。 鷹山は身分の高い人であったけれども、わざわざ一里あまりも迎えに出て、ある寺の門前で平洲を待ち受け、丁寧に挨拶しました。 それから寺で休もうとして、長い坂道を登っていくのに、平洲より一足も先へ出ず、また平洲がつまづかないように気をつけて歩きました。 寺に着いた時も、丁寧に案内して、座敷へ通し、心を込めてもてなしました。 |
★ 第九 「友達」 |
友蔵と信吉は親しい友達で、同じ学校を卒業した後、二人とも同じ工場に雇われて一緒に働いていました。 ところが信吉は過ちがあって暇を出されました。 友蔵は友達の為に色々と謝ってやりましたが、主人が許しませんので、仕方が無く、折を見てまた頼もうと思っていました。 ある時友蔵は新しい機械を工夫しました。 主人はそれを褒めて、「何でも望みを叶えてやる。」と言いました。 友蔵は「それでは信吉を元の通りに使って下さい。」と願って、すぐ許されました。 主人はまた「褒美に家を造ってやろう。」と言いましたら、友蔵は「友達が許されました上は望みはございません。」と断りました。 それからすぐに信吉を連れて帰って、二人で喜びました。 |
★ 第十 「規則に従え」 |
春日局は時の将軍の乳母であった人でたいそう勢力がございました。 ある夜遅くお城に帰って来た時、門が閉まっていたので、供人が開けさせようとしましたら、門番の役人が「規則でございますから、上役の許しがあるまでは通すことは出来ません。」と言いました。 局は「それはもっともなこと。」と言って、寒い夜風に吹かれながら門の開くまで外に待っていました。 |
★ 第十一 「行儀」 |
松平好房は小さい時から行儀の良い人で、自分の居間にいてもかりそめにも父母の居られる方へ足を伸ばしたことはありませんでした。 よそへ、行く時はそのことを両親に告げ、帰って来た時は、必ず両親の前へ出て、その日あった事を話しました。 父母から物を貰う時は、丁寧におじきをしてそれを受け、いつまでも大切に持っていました。 また人が好房の父母の話をすると、行儀良く居直って聞きました。 |
★ 第十二 「勇気」 |
木村重成は豊臣秀頼の家来で、勇気のある人でした。 秀頼が徳川家康と戦をした時、重成は二十歳ばかりでしたが、勇ましい働きをしました。 また重成は家康の所へ使いに行きました時、少しも恐れず、家康の前へ出て、書き物を受け取ろうとしました。 見ると家康の血判が薄かったので、「今一度、目の前でして下さい。」と怖めず臆せず言いましたので、家康はやむを得ず改めて血判をしました。 重成が帰った後で、家康はじめその場にいた人々は皆重成の立派な振る舞いを褒めました。 |
★ 第十三 「堪忍」 |
重成の十二、三歳の頃でした。 大阪の城で掃除坊主と戯れていたら、坊主が腹を立てて重成をさんざんに罵った上、打ってかかろうとしました。 その時重成は少しも取り合わずにいたので、見ていた人々は重成を臆病者と思って誹りました。 後に徳川方との戦が始まった時、重成が外の人にまして勇ましく働いたので、前に誹った人々も、本当の勇気のある人だと感心しました。 ならぬ堪忍、するが堪忍。 |
★ 第十四 「物事に慌てるな」 |
毛利吉就の奥方が住んでいた屋敷の近所に火事がありました。 家来の人々は驚いて「早くお立ち退きになるように。」と勧めました。 その時奥方は人々の慌てるのをとどめ、「まずめいめいが大切にするものをかたずけよ。慌ててこちらからも火を出すことのないように、火の元に気をつけよ。立ち退く時には女子供は自分と一緒に行くようにせよ。」と指図をしました。 人々はその落ち着いた指図に励まされ、力を合わせて火を防ぎましたので、屋敷は無事に残りました。 |
★ 第十五 「皇大神宮」 |
ここに年経た杉の木の茂り合った中に、尊い御宮が見えます。 この絵は伊勢にある皇大神宮の御有様を写したものでございます。 皇大神宮は天皇陛下の御先祖天照大神をお祀りもうしてある御宮で、陛下にあらせられましても常に御大切にあそばされます。 我々日本人はこの御宮を敬わなければなりません。 |
★ 第十六 「祝日」 |
我が国の祝日は新年と紀元節と天長節・天長節祝日で、これを三大節と申します。 新年は年の初めを祝うのでございます。 紀元節は神武天皇が御即位の礼を行せられた日を祝うのでございます。 天長節は天皇陛下のお生まれになった日で、そのお祝いをする日が天長節祝日でございます。 |
★ 第十七 「倹約」 |
徳川光圀は女中達が紙を粗末にするのを止めさせようと思い、冬の寒い日に紙漉き場を見せにやりました。 女中達は川の上の桟敷に居て、寒い風に吹かれながら、紙漉女が水の中で働く有様を見て帰りました。 そこで光圀は「一枚の紙でも、紙漉女が苦労してこしらえたものであるから、無駄に使ってはならぬ。」と言って聞かせました。 女中達はなるほどと覚って、それからは紙を粗末にしないようになりました。 |
★ 第十八 「慈善」 |
昔羽前の鶴岡に鈴木今右衛門という慈善の心の深い人がありました。 大飢饉の時、田畑をはじめ家の道具まで売って多くの人を助けました。 今右衛門の妻も心だての良い人で、施しをするために、着物類を売り払い、晴れ着が二枚だけ残っていましたが、「着替えがなくなって外へ出ることが出来なければ、くしやかんざしの入用もありません。これらの物を金にかえて、もっと多くの人を助けましょう。」と言って、晴れ着と共にくし・かんざしも皆売ってしまいました。 今右衛門夫婦に十二歳になる娘がありました。 ある寒い日同じ年頃の女の子が物もらいに来ました。 母はそれを見て、娘に「あの子は単衣物一枚で震えています。お前の着ている綿入れを一枚やってはどうです。」と言いましたら、娘はすぐに上に着ている方のを脱いでやりました。 我が身をつねって、人の痛さを知れ。 |
★ 第十九 「恩を忘れるな」 |
永田佐吉は十一の時美濃の竹ヶ鼻から尾張の名古屋へ出て、ある紙屋に奉公しました。 佐吉は正直者で、良く働きますから、主人に可愛がられていました。 また暇があると学問をして楽しんでいました。 朋輩の者どもが佐吉を妬んで店から出してしまうように主人に迫りました。 主人は是非無く佐吉に暇をやりました。 佐吉は家に帰ってから、仲買などをして暮らしを立てていましたが、主人の恩を、忘れないで道のついでには、きっと訪ねて行きました。 その後紙屋は衰えましたが、佐吉は折々見舞って、物を贈り、暮らしの助けにしました。 |
★ 第二十 「寛大」 |
昔貝原益軒という名高い学者がありました。 ある日外に出ていた間に留守居の若者が隣の友達と、庭で相撲を取って、益軒が大切に育てていたぼたんの花を折りました。 若者は心配して、益軒の帰りを待ち受け、隣の主人に頼んで、過ちを詫びて貰いました。 益軒は少しも腹を立てた様子が無く、「自分がぼたんを植えたのは楽しむ為で、怒る為ではない。」と言って、そのまま許しました。 |
★ 第二十一 「健康」 |
益軒は小さい時には身体が弱かったので、常に養生に気をつけました。 色々の書物を読む折りに、養生のことが書いてある所があれば、書き抜いておいて、その通り守りました。 それで身体が次第に丈夫になって、年を取っても衰えず、八十五歳までも長生きをして、多くの本を著す事が出来ました。 薬より、養生。 |
★ 第二十二 「自分の物と人の物」 |
近江の河原市と言う所に一人の馬子がありました。 ある日一人の飛脚を馬に乗せて、ある宿まで送り、家に帰って馬の鞍を下ろすと、金がたくさん入っている財布が出ました。 これは先に乗せた飛脚の忘れ物に違いないと思って、すぐに前の宿へ走って行って、飛脚に会い、詳しく尋ねた上でその財布を渡しました。 飛脚はたいそう喜んで「この金がなくなると、私の命にもかかわるところでした。あなたの御恩は言葉で言い尽くすことが出来ません。」と言って厚く礼を述べ、「お礼のしるしに。」と金を出しました。 しかし馬子は「あなたの物をあなたが受け取るに、何でお礼などということがありましょう。」と言って、なかなか受け取りませんでした。 |
★ 第二十三 「共同」 |
ある時毛利元就はその子の隆元・元春・隆景の三人に一つの書き物を渡しました。 その中に「三人とも毛利の家を大切に思い、互いに少しでも、隔て心を持ってはならぬ。隆元は二人の弟を愛し、元春・隆景は良く兄に仕えよ。」とありました。 また隆元に別の書き物を渡して、「あの書き物を守りとして、家の栄えを図れよ。」と懇ろに戒めました。 それで、兄弟一緒に名を書き並べた請書を父に差し出し、「三人が共同して、御戒めを守ります。」と誓いました。 その後隆元は早く死んで、その子の輝元が家を継ぐことになりましたが、元春・隆景は良く元就の戒めを守り、心を合わせて輝元を助けたので、毛利家は長く栄えることになりました。 |
★ 第二十四 「近所の人」 |
相模のある村に佐太郎という人がありました。 家が貧しかったけれども、よく近所の人に親切を尽くしました。 ある時近所の人の家の屋根が損じているのを見て、「何故直さないのですか。」と尋ねたら、その人が「貧乏で直すことが出来ません。」と答えました。 そこで佐太郎は村中の家からわらを少しずつもらい集め、自分も出して、その屋根を直させました。 また村の中で火事にあった人があると、自分の藪の竹を切って、その人に贈りなどしました。 |
★ 第二十五 「公益」 |
佐太郎の住んでいた村の往来の土橋は度々損じて、人々が難儀をしました。 佐太郎は村役人になった時、役人仲間と相談をして、めいめいの給料少しずつ蓄えておいて、その金で石橋に掛け替えました。 それからは永く橋の損じることがなくなって、たいそう便利になりました。 その外にも、佐太郎は色々と村のためになる事をしたので、人々に尊ばれ、村役人の頭に取り立てられました。 |
★ 第二十六 「生き物を憐れめ」 |
昔木曾山中に孫兵衛という馬子がありました。 ある時一人の僧がその馬に乗りました。 道の悪い所にかかると、孫兵衛は「親方危ない、危ない。」と言って馬を助けてやりました。 僧は不思議に思って、そのわけを尋ねましたら、孫兵衛は「私ども親子四人はこの馬のおかげで暮らしておりますから、親方と思って労るのでございます。」と答えました。 やがてある宿へ着いて、僧は賃銭を渡しますと、孫兵衛は、その中で餅を買って馬に食べさせました。 それから自分の家の前へ行くと、孫兵衛の妻がすぐに出て来て馬にまぐさをやって労りました。 僧はそれを見て孫兵衛夫婦の心がけの良いのに深く感心しました。 |
★ 第二十七 「良い日本人」 |
良い日本人となるには、常に天皇陛下・皇后陛下の御徳を仰ぎ、また常に皇大神宮を敬って、忠君愛国の心を起こさなければ成りません。 父母に孝行を尽くし、師を敬い、友達には親切にし、近所の人には良くつきあわなければなりません。 正直で、寛大で、慈善の心も深く、人から受けた恩を忘れず、人と共同して助け合い、規則には従い、自分の物と人の物との分かちをつけ、また世間のために公益を図らなければなりません。 その外行儀を良くし、物を整頓し、仕事に骨折り、学問に励み、身体の健康に気をつけ、勇気を養い、堪忍の心強く、物に慌てないようにし、また倹約の心がけがなければなりません。 かように自分の行いを謹んで、良く人に交わり、世のため人のために尽くすように心がけるのは、良い日本人になるに大切なことです。 そうしてこれらの心得は真心から行わなければなりません。 |
2006年12月14日更新