★ 第一 「明治天皇」
明治天皇は常に人民を子のようにお慈しみになり、之と苦楽をともにあそばされました。

明治十一年天皇は北国巡幸の時、新潟県で目の悪い者が多いのを御覧あそばされて、それを直す為に御手元金を下されました。

また天皇は地震・洪水・火事などの災難にかかった人民を度々お救いになりました。

明治二十二年愛知県で大演習のあった時、天皇は激しい雨の降る中で、兵士と同じように御頭巾をも召されず、御統監になりました。

明治二十七、八年の戦の時、天皇陛下は大本営を広島へ御進めになりましたが、大本営は質素な西洋作りで、その一間が御座所でございました。

天皇はこの御間にばかり始終お出でになって、朝早くから夜遅くまで、色々御指図あそばされました。

天皇は常に御質素にあらせられました。

表御座所でお用いの硯箱や、筆・墨などもみな普通のもので、これを役に立たなくなるまで、お使いになりました。

またこの御間の敷物は、古くなって色が変わってもおかまいなく、御椅子の下の毛皮も、破れた所をたびたび繕わせて、なかなかお取り替えになりませんでした。

★ 第二 「能久親王」
能久親王は明治二十八年五月台湾の賊軍を御征伐なさるために、かの地へお渡りになりました。

お着きになってもお休みになるような家がないので、砂の上に幕を張り、粗末な、薩摩芋の蒸し焼きを差し上げました。

それからだんだん軍をお進めになりましたが、兵士と共にたいそう難儀をなされ、御病気におなりになっても少しもおいといなされず、御指図なさいました。

賊は大抵平らぎましたが、南の方にまだ残りの賊がいましたので、その方へお進みになりました。

その途中また御病気におかかりなさいました。

軍医は「御留まりになって御養生あそばしますように。」と申し上げましたが、親王は「我が身のために国の事をおろそかにすることは出来ぬ。息のある限りは続ける。」と仰せられ、窮屈なかごに乗って御進みになりました。

親王はかように国のために御尽くしになりましたが、御病気が重くなって、間もなく御隠れになりました。

★ 第三 「靖国神社」
靖国神社は東京の九段坂の上にあります。

この社には君のため国のために死んだ人々を祀ってあります。

春四月三十日と秋十月二十三日の祭日には、勅使を遣わされ、臨時大祭には天皇・皇后両陛下の行幸啓になることもございます。

君のため国のために尽くした人々をかように社に祀り、また丁寧なお祭りをするのは天皇陛下の思し召しによるのでございます。

私どもは陛下の御恵みの深いことを思い、ここに祀ってある人々に倣って、君のため国のために尽くさなければなりません。

★ 第四 「志を立てよ」
豊臣秀吉は木下弥右衛門の子で、尾張の貧しい農家に生まれ、8歳の時父に死に別れました。

秀吉は小さい時から偉い人になろうと志を立てていましたが、良い主人に仕えようと思って、十六歳の時遠江へ行きました。

途中で松下加兵衛という武士にあって、その人に仕えることになりました。

秀吉はよく働きましたので、主人の心にかない、だんだん引き立てられました。

けれども仲間の者にそねまれたので、暇を貰って尾張へ帰りました。

その後秀吉は織田信長が優れた大将であるということを聞いて、つてを求めて信長の草履取りになりました。

これから秀吉はだんだん出世をしました。

★ 第五 「皇室を尊べ」
秀吉は信長の亡くなった後、国内を平らげ、おいおいと位が昇って、仕舞いには関白太政大臣となり豊臣の姓を頂戴しました。

その頃の天皇は正親町天皇と申し上げましたが、世の中が乱れていたために、おそれ多くも皇居の御普請も十分出来ず、御不自由がちであらせられました。

秀吉は力を尽くして皇室の御ためをはかりましたので、天皇は御喜びになりました。

その後秀吉は京都に屋敷を構えて聚楽と名を付けましたが、ある年その屋敷に後陽成天皇の行幸を御願い申し上げました。

その時秀吉は文武の役人を従えて、御共を致しました。

御道筋には多くの人々が拝観していて、久しぶりにこの太平の有様を見て喜びました。

また聚楽では秀吉が大名達に皇室を尊ぶことを天皇の御前で誓わせました。

京都の豊国神社は秀吉を祀ってある社でございます。

★ 第六 「孝行」
渡辺登は十四歳の頃、家が貧しい上に父が病気になったので、どうかして家の暮らしを助けて、父母の心を休めたいと、考えました。

登は初め、学者になろうと思って、学問を勉強しましたが、ある時、人から「絵を描くことを稽古したら、暮らしの助けになるだろう。」と勧められ、すぐある先生について、絵を習いました。

父は二十年ばかりも病気をしていましたが、登はその長い間、看病をして、少しも怠りませんでした。

父が亡くなった時、たいそう悲しんで、泣きながら、筆を取って、父の顔形を写しました。

葬式が済んだ後も、朝晩着物を改め、謹んで父の絵姿に礼拝をしました。

孝は親を安んずるより大いなるはなし。

★ 第七 「兄弟」
登の弟や妹は、皆早くからよそへやられました。

八つばかりになる弟が、外へ連れて行かれる時、登は弟の不幸せを悲しんで、雪が降って寒いのに、遠い所まで送って行って別れました。

その弟が知らない人に手を引かれ、後ろを振り向きながら行った姿が、あまりに可哀相であったので、登はいつまでもその時のことを思い出して歎きました。

★ 第八 「勉強」
登は先に人の薦めにより、ある先生について、絵を習っていましたが、お礼が十分に出来なかったため、二年ばかりで断られました。

登は力を落として泣いていたら、父が「これくらいな事で力を落としてはならぬ。外の先生について勉強せよ。」と言いました。

登は父の言葉に励まされて、外の先生について習いました。

その先生は良く教えてくれられましたから、登の技はだんだん進みました。

そこで登は絵を描いてそれを売り、家の暮らしを助けながら、なおなお絵の稽古を励みました。

またその間に学問もしましたが、暇が少ないので、毎朝、早く起きてご飯を炊き、その火の明かりで本を読みました。

艱難汝を玉にす。

★ 第九 「規律」
登は父が亡くなってから、その跡を継いで、だんだん重い役に取り立てられました。

その頃から日々の仕事を定めて、朝昼晩ともそれぞれ時刻に割り当て、それを箇条書きにして、その通り行いました。

こんなに登は規律正しくしたので、絵がたいそう上手になったばかりでなく、学問も進んで偉い人になり、世間の人々から敬われるようになりました。

★ 第十 「克己」
高崎正風は薩摩の武士の家に生まれました。

九歳の頃、或朝、食事の時に、「おかずがまずい。」と言って食べませんでした。

召使いは何か他におかずをこしらえようとしますと、隣の間に居た母が来て、「お前は武士の子でありながら、食べ物についてわがままを言いますか。昔戦の時には殿様さえ召し上がり物がなかったこともあるというではありませんか。どんな苦しいことでも我慢をしなければ、良い武士にはなれません。このおかずがまずければ食べないがよろしい。」と言って正風の膳を持ち去りました。

正風は一度母の言をひどいと思いましたが、遂に自分のわがままであったことに気が付いて、何遍も母に詫び、姉もまた詫びてくれましたので許されました。

その時、これからは食事について決してわがままを言うまいと誓いました。

それから正風はこの誓いを守るばかりでなく、どんな難儀なことでも、よく我慢したので、後には、立派な人になりました。

★ 第十一 「忠実」
お綱は若狭の漁師の娘で、十五歳の時、子守り奉公に出ました。

ある日主人の子供をおぶって遊んでいると、一匹の犬が来て、お綱に飛びかかりました。

お綱は驚いて、逃げようとしたが、逃げる暇がない。

急におぶっていた子供を地面に降ろし、自分がその上にうつ伏せになって、子供をかばいました。

犬は激しくお綱にかみついて、多くの傷をおわせましたが、お綱は少しも動きませんでした。

その内に人々が駆けつけて、犬を打ち殺し、お綱を介抱して、主人の家に帰らせました。

子供には怪我がなかったがお綱の傷はたいそう重くて、そのために、とうとう死にました。

これを聞いた人々はいずれも深く感心して、お綱のために石碑を建てました。

★ 第十二 「身体」
伴信友は常に健康に心掛けました。

毎日朝起きた時と、夜寝る時に姿勢を正しくして座り、三、四十遍も深呼吸をし、また毎朝冷たい水で頭を冷やしました。

その他朝晩弓を引いたり、刃をつぶした刀を振ったりして、良く運動しました。

かように身体を大切にしたので年を取っても丈夫で、たくさんの本を著すことが出来ました。

すべて身体を丈夫にするには、姿勢に気をつけ、運動を怠らず、着物は清潔にして、厚着や、薄着に過ぎない様にし、眠りと食事は規則正しくしなければなりません。

また身体を汚くしておくと病気が起こりやすく、薄暗い所で物を見ると目を痛めます。

★ 第十三 「自立自営」
近江に高田善右衛門という商人がありました。

十七歳の時、自分で働いて家を興そうと思い立ちました。

父からわずかの金をもらい、それを元手にして、灯芯と傘を買入れ、遠い所まで商売に出かけました。

道には険しい山坂が多かったので、善右衛門はかさばった荷物を担いで登るのに、たいそう難儀をしましたが、片荷ずつ運び上げて、ようよう山を越えたこともありました。

また時々は淋しい野原をも通って、村々を廻って歩き、雨が降っても、風が吹いても、休まずに働いたので、僅かの元手で、多くの利益を得ました。

その後呉服類を仕入れて方々に売りに歩きました。

いつも正直で、倹約で、商売に勉強しましたから、だんだんと立派な商人になりました。

★ 第十四 「自立自営」(続き)
善右衛門は人に頼らず、一筋の天秤棒を肩にして商売に励みました。

ある時善右衛門は商売の荷物を持たないで、いつもの宿屋に泊まりました。

知り合いの女中が出て来て「今日はお連れはございませんか。」と言いました。

善右衛門は不思議に思って、「始終一人で来るのに、お連れとは誰の事ですか。」と尋ねましたら、女中が、「それは天秤棒のことでございます。」と言いました。

善右衛門は常に自分の子供に教えて、「自分は初めから人に頼らず、自分の力で家を興そうと心掛けて、精出して働き、またその間倹約を守り、正直にして無理な利益をむさぼらなかったので、今のような身の上となったのである。」と言って聞かせました。

★ 第十五 「志を堅くせよ」
イギリスのジェンナーはふとした事から、牛痘を植えて疱瘡を予防する事を思い付きました。

友達にその話をすると、友達は皆あざけり笑って、「付き合いを止める。」とまで言いました。

それでも少しも構わず、二十年余りの間様々に工夫を凝らし、とうとう種痘の法を発明しました。

まず自分の子に牛痘を植えてみた上、書物に書いて世間の人に知らせました。

ジェンナーはその後も色々と悪口を言われましたが、ますます志を堅くして研究を続けていました。

その内に種痘が人助けの良い法であると知れて、広く世間に行われるようになりました。今では我等もそのおかげを被って居るのでございます。

★ 第十六 「仕事に励め」
円山応挙は毎日京都の祇園社へ行って、多くの鶏の遊ぶ有様をじっと見ていたので、人々が馬鹿者ではないかと思いました。

こんなにして一年も経って、衝立に鶏の絵を描いたら、生きているように出来ました。

その衝立は祇園社に納めました。

これを見る人々はみんな立派だと褒めるだけでしたが、ある日野菜売りの老人がしばらく見ていた後、「鶏の側に草の描いてないのがたいそう良い。」と独り言を言いました。

応挙は老人の家へ訪ねて行ってそのわけを尋ねると、老人は「あの鶏の羽の色は冬のものです。それで側に草の描いてないことがたいそう良いと思ったのです。」と答えました。

ある時応挙はまた寝ている猪を描こうとしました。

八瀬の柴売り女が自分の家の後ろの竹藪に一匹の猪が寝ていると知らせたので、すぐ一緒に行って、その有様を描きました。

鞍馬から来た炭売りの老人が、その絵を見て、「この猪は背中の毛が立っていないから、病気にかかっているのでしょう。」と言いました。

その後で八瀬の女が来て「あの猪はあそこで死んでいました。」と告げました。

そこで応挙は改めて達者な猪の寝ている所を見て描きましたら、世間の人が褒めそやして、一時に応挙の評判が上がりました。

★ 第十七 「迷信に陥るな」
ある町に目を患っている女がありました。

迷信の深い人で、かねてある所のお水が、目の病に良いという事を聞いていたので、それを貰って来て用いました。

けれども病は日々重くなるばかりで、何の徴も見えませんでした。

ある日親類の人が見舞いに来て、驚いて、無理にお医者の所へ連れて行って、見て貰わせました。

お医者は診察をして、「これは激しいトラホームです。右の目は手遅れになっているので、治すことが出来ません。左の目はまだ見込みがありますから、手術をしてみましょう。これも今少し遅れたら、手の着けようもなかったでしょう。」と言いました。

その後手術を受けたおかげで、左の目はようよう治りましたが、その女は、「自分の愚かなため、道理に合わないことを信じて、まったくのめくらになろうとしました。恐ろしいのは迷信でございます。」と常々人に話しました。

★ 第十八 「礼儀」
人は礼儀を守らなければなりません。

礼儀を守らなければ、世に立ち人に交わることが出来ません。

人に対しては、言葉遣いを丁寧にしなければなりません。

人の前であくびをしたり、人と耳こすりしたり、目配せしたりするような不行儀をしてはなりません。

人に送る手紙には、丁寧な言葉を使い、人から手紙を受けて返事のいる時は、すぐに返事をしなければなりません。

また人に宛てた手紙を、許しを受けずに開いて見たり、人が手紙を書いているのを、覗いたりしてはなりません。

その他、人の話を立ち聞きするのも、人の家を透き見するのも良くないことです。

人と親しくなると何事もぞんざいになりやすいが、親しい仲でも礼儀を守らなければ、長く仲良く付き合う事が出来ません。

親しき仲にも礼儀あり。

★ 第十九 「良い習慣を造れ」
良い習慣を造るには常に自分を振り返って見て、善い行いを努め、悪い行いを避けなければ成りません。

瀧鶴臺の妻がある日袂から赤い鞠を落としました。

鶴臺があやしんで尋ねますと、妻は顔を赤くして、「私は過ちをして後悔することが多いございます。それで過ちを少なくしようと思い、赤い鞠と白い鞠を造って袂へ入れておき、悪い心が起こる時には、赤い鞠に糸を巻きそえ、善い心が起こる時には、白い鞠に糸を巻きそえています。初めのうちは赤い方ばかり大きくなりましたが、今では両方がやっと同じ程の大きさになりました。けれども白い鞠が赤い鞠より大きくならないのを恥ずかしく思います。」と言って、別に白い鞠を出して鶴臺に見せました。

自分を振り返って見て善い行いを努めることは初めは苦しくても、習慣となればさほどに感じないようになるものです。

習、性となる。

★ 第二十 「生き物を憐れめ」
ナイチンゲールはイギリスの大地主の娘で小さい時から情け深い人でございました。

父が使っていた羊飼いに一人の老人があって、犬を一匹飼っていました。

ある時その犬が足を傷めて苦しんでいました。

その時ナイチンゲールは、年取った僧と一緒に通り合わせて、それを見つけ、たいそう可哀相に思いました。

そこで僧に尋ねた上、湯で傷口を洗い、包帯をしてやりました。

明くる日もまた行って、手当をしてやりました。

それから二、三日たって、ナイチンゲールは羊飼いの所へ行きました。

犬は傷が治ったと見えて、羊の番をしていましたが、ナイチンゲールを見ると、嬉しそうに尾を振りました。

羊飼いは「もしこの犬が物が言えたら、さぞ厚くお礼を言うでありましょう。」と言いました。

★ 第二十一 「博愛」
ナイチンゲールが三十四歳の頃、クリミア戦役という戦がありました。

戦が激しかった上に、悪い病気がはやったので、負傷兵や病兵がたくさんに出来ましたが、医者も看護をする人も少ないために、たいそう難儀をしました。

ナイチンゲールはそれを聞いて、大勢の女を引き連れて、はるばる戦地へ出かけ、看護の事に骨折りました。

ナイチンゲールはあまりひどく働いて病気になったので、人が皆国に帰ることを勧めましたけれども、聞き入れないで、病気が治ると、また力を尽くして傷病兵の看護をいたしました。

戦争が済んでイギリスへ帰った時、ナイチンゲールは女帝に、拝謁を許され、厚いお褒めにあずかりました。

また人々もその博愛の心の深いことに感心しました。

★ 第二十二 「国旗」
この絵は紀元節に家々で日の丸の旗を立てたのを、子供達が見て、喜ばしそうに話をしている所です。

どこの国にもその国の証の旗があります。

これを国旗と申します。

日の丸の旗は、我が国の国旗でございます。

我が国の祝日や祭日には、学校でも家々でも国旗を立てます。

その外、我が国の船が外国の港に泊まる時にも之を立てます。

国旗はその国の証でございますから、我等日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。

また礼儀を知る国民としては外国の国旗も相当に敬わなければ成りません。

★ 第二十三 「祝日・大祭日」
我が国の祝日は新年と紀元節と天長節・天長節祝日とでございます。

新年は一月一日、二日、五日、紀元節は二月十一日、天長節は八月三十一日、天長節祝日は十月三十一日でいずれもめでたい日でございます。

大祭日は元始祭・春季皇霊祭・神武天皇祭・明治天皇祭・秋季皇霊祭・神嘗祭・新嘗祭でございます。

元始祭は一月三日で、宮中の賢所・皇霊殿にてお祭りがあります。

神武天皇祭は四月三日、明治天皇祭は七月三十日でございます。

神嘗祭は十月十七日で、この日にはその年の初穂を伊勢の神宮にお供えになり、新嘗祭は十一月二十三日で、この日には神嘉殿にて神々に初穂をお供えになります。

また春分の日、秋分の日に、御代々の皇霊をお祭りになるのが春季皇霊祭・秋季皇霊祭でございます。

祝日・大祭日は大切な日で、宮中では天皇陛下御自らおごそかな御儀式を行わせられます。

我等はよくその日のいわれをわきまえて、忠君愛国の精神を養わなければなりません。

★ 第二十四 「法令を重んぜよ」
昔ギリシャの大学者ソクラテスは色々国のために尽くし、また若い人達に正しい道を教えました。

ところがソクラテスを憎む人々に訴えられて、とうとう死刑を言い渡されました。

弟子のクリトンは獄へ面会に行き、「罪もないのに死ななければならない道理はありません。今、獄を逃げ出す道があるから、すぐにお逃げなさい。」と言って、しきりに勧めました。

ソクラテスは「自分は今まで国のために正しい道を踏んできたから、今になってそれを破ることは出来ない。国法に背いて生きているよりも、国法を守って死んだ方がよい。」と言って、落ち着いていました。

★ 第二十五 「公益」
昔、羽後の海辺の村々では、暴風が砂を吹き飛ばして、家や田を埋める事が毎度ありました。

栗田定之丞という人が、ある郡の役人であった時、その害を除こうといろいろ工夫しました。

まず海辺の風の吹く方に、藁束を立て連ねて砂を防ぎ、その後ろに、柳やグミの枝をささせましたら、皆芽をふくようになりました。

そこで更に松の苗木を植えさせました。

それが次第に大きくなって、遂に立派な林になりました。

その後定之丞は他の郡の役人になりましたが、そこでもこの事を土地の人に勧めました。

初めは激しい反対を受けたけれども、色々と諭し、自分が先に立って働いたので、また松林が繁るようになりました。

定之丞は十八年の間もこの事に骨折りました。

そのために風や砂の憂いが無くなって、粟などの畑も所々に開け、また松露や、はつだけも生ずるようになりました。

この地方の人々は今日までもその恩をありがたく思い、定之丞のために栗田神社という社を建てて、年々のお祭りを致します。

★ 第二十六 「人の名誉を重んぜよ」
昔京都に伊藤東涯という学者がありました。

江戸の荻生祖来と相対して、共に評判が高うございました。

ある日、東涯の教えを受けている人が、祖来の書いた文を持って来て、東涯に見せました。

その場に他の弟子が二人居合わせましたが、これを見てひどく悪口を言いました。

東涯は静かに二人に向かって、「人はめいめい考えが違うものである。軽々しく悪口を言うものではない。ましてこの文は立派な物で、外の人はとても及ばないであろう。」と言って聞かせたので、弟子どもは深く恥じ入りました。

★ 第二十七 「良い日本人」
天皇陛下は明治天皇の御志を継がせられ、ますます我が国を盛んにあそばし、また我等臣民を御慈しみになります。

我等は常に天皇陛下の御恩を被る事の深い事を思い、忠君愛国の心を励み、皇室を尊び、法令を重んじ、国旗を大切にし、祝祭日のいわれをわきまえなければなりません。

日本人には忠義と孝行が一番大切な務めであります。

家にあっては父母に孝行を尽くし、兄弟互いに親しまなければなりません。

人に交わるには、良く礼儀を守り、他人の名誉を重んじ、公益に力を尽くし、博愛の道に努めなければなりません。

そのほか規律正しくし、学問に勉強し、迷信に陥らず、また常に身体を丈夫にし、克己のならわしをつけ、良い習慣を養わなければ成りません。

大きくなっては志を立て、自立自営の道を図り、忠実に事に当たり、志を堅くし、仕事に励まなければなりません。

我等は上に挙げた心得を守って良い日本人になろうと努めなければ成りません。

けれども良い日本人となるには多くの心得を知っているだけではなく、至誠をもって良く実行することが大切です。

至誠から出たものでなければ、良い行いのように見えてもそれは生気のない造花のようなものです。

2006年12月19日公開