★ 第四 「こうこう」
二宮金次郎は、家が大そうびんぼうであったので、小さい時から、父母の手助けをしました。

金次郎が十四の時、父がなくなりました。母は、くらしにこまって、金次郎と次の子を家におき、すえのちのみごをしんるいにあずけました。しかし、母は、その日から、あずけた子のことが気にかかって、夜もよく眠れません。「今ごろは、目をさまして、ちちをさがして泣いているであろう。」と思うと、かわいそうでならなくなり、いつも、こっそり泣いていました。金次郎は、それに気がついて、

「おかあさん、どうしておやすみになりませんか。」と聞きましたが、母は、

「しんぱいしないでおやすみ。」

というだけでした。金次郎は、「これは、きっとあずけた弟のことをしんぱいしていらっしゃるのにちがいない。」と思って、

「おかあさん、弟をうちへ連れてかえりましょう。赤んぼうが一人ぐらいいたって、何でもありません。私が、一生けんめいにはたらきますから。」

といいました。母は、大そう喜んで、すぐにしんるいへ行って、赤んぼうを連れてもどりました。親子四人は、一しょに集まって喜び合いました。

孝は徳ノハジメ。

★ 第五 「しごとにはげめ」
金次郎の村のさかいを流れている川には、たびたび大水が出て、土手をこわしました。そのために、村では、どの家からも一人ずつ出て、毎年、川ぶしんをしました。

金次郎も、年は若いが、この川ぶしんに出てはたらきました。しかし、まだ力がたらないので、おとなにはかなわないと思って、どうかしてしごとのたしになることはないかとかんがえました。そうして、昼のしごとをすまして家へかえると、夜おそくまでおきていてわらじをつくり、あくる朝、それをしごとばへ持って行って、

「私は、まだ一人前のしごとが出来ませんから、みなさんのおせわになります。これはそのおれいです。」

といって、みんなの人におくりました。しかし、金次郎は、人の休んでいる間でも、休まずはたらいたので、土や石をはこぶことは、かえっておとなよりも多いほどでした。

金次郎は、家のしごとにもよくはたらきました。

朝は早くから山へ行って、しばをかり、たきぎをとり、それを売って金にかえました。また、夜はなわをなったり、わらじをつくったりして、少しのじかんもむだにしませんでした。こうして、母を助けて、小さい弟たちをやしないました。

★ 第六 「がくもん」
金次郎が十六の時、母がなくなりました。それで、二人の弟は、母の生まれた家に引取られ、金次郎は、おじの家にせわになることになりました。

金次郎は、おじのいいつけをまもって、一日中、よくはたらきました。そうして、夜になると、本を読み、字をならい、さんじゅつのけいこをしました。しかし、おじは、あぶらがいるので、がくもんをすることをとめました。金次郎は、「自分は、しあわせがわるくて、よそのせわになっているが、今がくもんをしておかないと、一生むがくの人になって、家をさかんにすることも出来まい。自分で油を求めてがくもんをするなら、よかろう。」と思いました。

そこで、自分であれ地を開いてあぶらなをつくり、そのたねをあぶらやへ持って行き、あぶらを取りかえてもらって、毎晩、がくもんをしました。しかし、おじがまた、

「本を読むよりも、うちのしごとをせよ。」

といいましたので、夜おそくまでおじの家のしごとをして、その後で、がくもんをしました。

二十さいの時、金次郎は、あれはてた田や畠を買いもどし、家もさかんにしました。また、世のため、人のためにつくして、後々までもたっとばれる、りっぱな人になりました。

★ 第七 「せいとん」
本居宣長は、わが国の昔の本を読んで、日本が大そうりっぱな国であることを人々に知らせた、名高いがくしゃであります。

宣長は、たくさんの本を持っていましたが、一々本箱に入れて、よくせいとんしておきました。それで、夜、あかりをつけなくても、思うように、どの本でも取出すことが出来ました。

宣長は、いつもうちの人に向かって、

「どんな物でも、それをさがす時のことを思ったなら、しまう時にきをつけなければなりません。入れる時に、少しのめんどうはあっても、いる時に、早く出せる方がよろしい。」

といって聞かせました。

宣長が名高いがくしゃになり、りっぱなしごとをのこしたのには、へいぜい物をよくせいとんしておいたことが、どれだけやくにたったか知れません。

★ 第十二 「かんにん」
木村重成は、豊臣秀吉のけらいで、小さい時から、秀頼のそば近くつかえました。

重成が十二三のころのことです。ある日、大阪の城の中で、そうじ坊主とおもしろくたわむれていましたが、どうしたわけか、相手が、急に本気になって、大そう腹を立て、さんざん悪口をいった上、重成にうってかかろうとしました。い合わせたおとなの人たちは、どうなることかとしんぱいしました。

重成は、ぶれいなことをすると思いましたが、じっとこらえて取合わず、そのままおくへはいりました。人々は、いがいに思って、重成をおくびょうものだといって笑いました。それからは、そうじ坊主がいばってしかたがありませんでした。

後に、秀頼が徳川家康といくさをした時、重成は、人をおどろかすほどの勇ましいはたらきをしました。そこで、前に重成をおくびょうものだといって笑った人たちまでが、

「重成こそ、ほんとうのゆうきのある人だ。」

といって、かんしんしました。

ナラヌカンニン、スルガカンニン。

★ 第十三 「ゆうき」
家康が、大軍を引連れて、秀頼のいる大阪の城にせめて来た時のことです。重成は、二十さいばかりでしたが、一方の大将となって、城からうって出て、大ぜいの敵とたたかい、勇ましいはたらきをして、敵みかたをおどろかしました。

後に、いくさの仲なおりをすることになって、重成は、家康のじんやへ使に行きました。重成は、家康始め、大ぜいの敵の大将の並んでいる所へ出ましたが、びくともしません。そのうち、書き物を受取ることになりましたが、見ると、家康のけっぱんがうすいので、

「もう一度、目の前でしなおして下さい。」

と、少しもおそれずいいました。しかし、家康は、

「年をとったかげんで、うすいのだろう。」

といって、聞入れないようすでした。けれども、重成が、ただだまってすわっていますので、家康も、しかたがなく、とうとうけっぱんをしなおして、重成に渡しました。重成がかえった後で、家康を始め、そばにいた大将たちは、みんな重成のりっぱなふるまいをほめました。

★ 第十四 「正直」
昔、正直な馬方がありました。

或(ある)日、馬方は、一人のひきゃくを馬に乗せて、遠い所へ送って行きましたが、家にかえって馬のくらをおろすと、金のたくさんはいって居るさいふが出ました。「これは、さっき乗ったひきゃくの忘れた物にちがいない。」と思って、つかれて居るのに、遠い道もかまわず、すぐに走って行って、ひきゃくにあいました。そうして、くわしく尋ねた上で、其(そ)のさいふを渡しました。ひきゃくは、大そう喜んで、

「此(こ)の金がなくなると、私の命もあぶないところでした。あなたのごおんは、ことばで言いつくすことが出来ません。」

と、ていねいにれいをのべました。それから、別に持って居た金を取り出し、

「これは、わずかですが、おれいのしるしに受取って下さい。」

と言いながら、馬方の前へさし出しました。馬方は、おどろいて、

「あなたの物をあなたがお受取りになるのに、おれいをいただくわけがありません。」

と言って、手もふれません。ひきゃくがいくらすすめても、どうしても受取らず、其のままかえろうとします。ひきゃくは、どうかして受取ってもらおうと思って、金をだんだんへらして、しまいには、ごくわずかにして、

「せめてこればかりは、どうぞ受取って下さい。でないと、私はねてもねられません。」

と、むりにすすめました。馬方は、

「おれいをいただいてはすみませんが、そんなにまでおっしゃいますなら、今夜、休むところをここまで来ましただちんだけ、此の中からいただきましょう。」

と言って、ほんのわずかの金を受取りました。

★ 第十八 「きそくをまもれ」
松平定信は、ばくふの重い役人でありました。或年、地方に見まわりに出かけた時、或関所を通りました。其の時、定信は、何の気なしに、かさをかぶったまま通り抜けようとしました。すると、関所の役人の一人が、

「関所のきそくですから、かさをおとり下さい。」

と言って、ちゅういしました。定信は、それを聞いて、

「なるほど、そうだった。」

と言って、すぐにかさをとって通りました。

其の日、やどに着いてから、定信は、その土地の上役の者に、

「きょう、かさをかぶったまま関所を通ろうとしたのは、まことに自分のふこころえであった。それをちゅういしてくれた役人に、あつくおれいを伝えてもらいたい。」

と言って、ていねいにあいさつしました。

★ 第二十三 「協同」
昔、毛利元就という人がありました。元就には、隆元・元春・隆景という三人の子があって、元春・隆景は、それぞれ別の家の名を名のることになりました。元就は、三人の子が、先々はなればなれになりはせぬかと心配して、いつも、「三人が一つ心になって助け合うように。」といましめて居ましたが、或時、三人に一つの書き物を渡しました。

それには、

「三人とも、毛利の家を大切に思い、たがいに、少しでもへだて心を持ってはならない。隆元は二人の弟を愛し、元春・隆景はよく兄につかえよ。そうして、三人が一つ心になって助け合え。」

と書いてありました。

また、元就は、隆元に別の書き物を渡しましたが、それにも、

「あの書き物をまもりとして、家の栄をはかるようにせよ。」

と、よく行きとどいたいましめが書いてありました。

書き物をもらった兄弟は、三人の名を書きならべた請書を父にさし出し、

「三人は、心を合わせて御いましめをまもります。」

と、かたくちかいました。

其の後、元就のあとをついだ隆元は早く死んで、其の子の輝元が家をつぎました。元春・隆景は、よく元就のいましめをまもって輝元を助けましたので、毛利の家はながく栄えました。

2006年12月16日更新