★ 第一 「孝行」
渡部登は、田原藩士で、号を崋山といいました。小さい時からすなおな人で、よく父母のいいつけを守り、少しでも父母に心配をかけるようなことはありませんでした。

十四歳の頃、家がまずしい上に、父が病気にかかったので、くらしは一そう苦しくなりました。登は父の背中をさすったり、くすりをすすめたりして看病に手をつくしました。また其のひまには、母の手助けをしました。そればかりでなく、何か仕事をしてうちのくらしを助け、父母を安心させたいものと、しじゅう考えていました。

登は、始め、学者になろうと思って学問を勉強していましたが、或時、したしい人をたずねて、身の上をそうだんしました。すると、其の人は、

「学問が好きのようだから、学者になろうと思っているのもよいが、しかしそれでは、今すぐくらしの助けにはなるまい。画が上手だから、画をかくことをけいこした方がよくはないか。」

と、しんせつにすすめてくれました。登は、それを聞いて、「なるほど、そうだ。」と思って、すぐ或師匠について画を習い始めました。

父の病気は長びいて、二十年ばかりも床についていました。時には大そう苦しんで、幾日もしょくじの出来ないようなこともありました。

登は、其の長い間、くらしを助けながら、少しも看病をおこたらず、一心に全快をいのっていましたが、其のかいもなく、父はとうとうなくなりました。登の悲しみはたとえようもなく、父をしたう余りに、泣きながら、ふでをとって父の顔かたちをうつしました。

そうしきがすんだ後も、毎晩、着物をあらためて、つつしんで父のえ姿にれいはいをしました。

孝ハ親ヲ安ンズルヨリ大イナルハナシ。

★ 第五 「兄弟」
登のうちには、登をかしらに、たくさんの子供がありました。うちがまずしい上に、父が病気になったので、父母は、みんなの子供をやしなうことが出来ず、仕方なく、弟や妹を早くからよそへようしにやったり、ほうこうに出したりしました。

中でも、一番かわいそうであったのは、やっと八歳ばかりになる次の弟が、お寺へやられた時でした。雪の降る寒い日でしたが、登は、小さい弟が父母のもとをはなれて、よそへ連れて行かれるのがかわいそうでなりませんから、遠い所まで送って行ってやりました。

別れる時、登は弟に向かって、

「病気をしないようにして、よくお寺の人のいうことをききなさい。」

と言って、涙を浮かべて別れをおしみました。

弟は、知らない人に手を引かれ、後をふり向きふり向き行きました。登も、雪の中に立って、寒い風に吹かれながら、弟の姿が見えなくなるまで、あとを見送っていました。登の目からは、あつい涙がとめどもなく流れました。

別れた時の弟の姿が、あんまりかわいそうであったので、登は、いつまでも其の時のことを思い出して悲しみました。

★ 第六 「勉強」
登は、人のすすめにより、或師匠について画を習うことになりました。

登は、母からわずかな金をもらっては紙を買い、夜昼ねっしんにけいこをしていましたが、師匠に十分のおれいをすることが出来なかったため、二年ばかりでことわられました。登は、一日も早く上手になって、父母に安心させようと思っていましたから、大そう力を落して、泣き悲しみました。父は、それを見て、

「それくらいのことで力を落すようでは、だめだ。外の師匠について、しっかり勉強するがよい。」

と言ってきかせました。

登は、父のことばにはげまされて、又外の師匠につきました。其の師匠は、気のどくに思ってしんせつに教えてくれ、登も一心に勉強しましたので、画がぐんぐん上手になりました。そこで、登は、画をかいてそれを売り、うちのくらしを助けながら、なおねっしんにけいこにはげみました。

其の間に、登は、又学問にもはげみましたが、ひまが少いので、毎朝早く起きて御飯をたき、其の火のあかりで本を読みました。

カンナン、汝ヲ玉ニス。

★ 第七 「規律」
登は、父がなくなってから、其のあとをついで、だんだん重い役に取立てられました。

登は、大そうきまりのよい人でした。重い役になっても、うちに居る時は、朝・昼・晩、それぞれじこくにわりあてた仕事の時間割を作って、其の通りに行いました。

時間割は、大体次のようなものでした。

一、午前四時から午前六時まで
これまで読んだ本の復習をすること。又、其の日にすべきことを考えること。

一、午前六時から午前八時まで
本を読むこと。或は児童に教えること。

一、午前八時から午前十時まで
前の続き。或は、げきけんなどのけいこをすること。

一、午前十時から正午まで
人からたのまれた画をかくこと。

一、正午から午後二時まで
前の続き。或は、殿様や親に仕える外、お客にあうこと。

一、午後二時から午後四時まで
前の続き。

一、午後四時から午後六時まで
昔の名高い画を手本として、一心に習うこと。

一、午後六時から午後八時まで
読みたい本を読んだり、書きぬいたり、又は文を作ったりすること。

かように登は、日々の仕事をきめて、規律ただしくしたので、画が大そう上手になって、人々にもてはやされたばかりでなく、学問も進んで、世間のためになりましたので、りっぱな人としてうやまわれました。

★ 第八 「発明」
種痘の法を発明した人は、ジェンナーという医者であります。ジェンナーがこれを発明するまでには、長い間、いろいろと苦心をしました。ジェンナーは、今からおよそ百九十年ほど前、イギリスに生まれました。少年の頃、或医者の弟子になっていました。或日、牛乳しぼりの女がしんさつをしてもらいに来ました。其の女は、顔一面にひどい吹出物が出て、みるもあわれな様子をしています。ジェンナーは、何という気のどくな病気だろうと思いました。これをしんさつした医者は、

「疱瘡です。」

と申しました。すると、其の女は、

「私は牛痘にかかったことがありますから、疱瘡にかかるはずはありませんが。」

と、ふしぎそうに申し立てました。

ジェンナーは、そばで聞いていて、「これはふしぎな話だ。ひょっとしたら、此の女の言うことには、何か深いわけがあるかも知れない。もしそうであったら、それを研究して、何かよいちりょう法を発明し、こういう気のどくな病人をすくってやりたい。」と考えました。それから人の体に牛痘をうえて、疱瘡をよぼうすることを思い立ちました。友達に話をしますと、皆あざけって、

「つき合いをやめる。」

とまで言いました。ジェンナーは、それでもかまわず、二十年余りの間、いろいろと牛痘や疱瘡のことをしらべ、さまざまにくふうをこらしました。其のかいがあって、とうとうたしかな種痘の法を発明しました。それで先ず、自分の子に牛痘をうえてみて、それから疱瘡のどくをうつそうとしましたが、うつらなかったので、其の事を本に書いて世間の人に知らせました。

ところが、世間の人は、此のよい発明を信じないで、かえって、

「牛痘をうえられた子供は、顔が次第に牛ににて来て、声も牛のほえるようになる。」

などと、悪口を言う者がありました。しかしジェンナーは、此の発明が人々のためになることを信じて、ますます一心に研究を続けました。

其のうちに、ジェンナーの発明した種痘が人助けのよい法であるということが知れて、広く世間に行われるようになりました。今では、私たちも、皆其のおかげを受けているのです。

★ 第九 「迷信におちいるな」
或町に、目をわずらっているおばあさんがありました。

其のおばあさんは、迷信の深い人で、かねて或所のお水が目の病によいということを聞いていたので、それをもらって来て、毎日目を洗っていました。しかし、何日たっても、少しのききめもなく、病気はだんだん重くなるばかりでした。

或日、親類の人がみまいに来て、此のありさまを見て驚きました。いやがるのを、むりに医者の所へ連れて行って、見てもらわせました。医者は、しんさつをして、

「これは、ひどいトラホームです。右の目は、手後れになっているので、なおすことは出来ません。左の目は、まだ見こみがありますから、ちりょうをしてみましょう。これも、いま少し後れたら、手をつけようもなかったでしょう。」

と言いました。

其の後、ちりょうを受けたおかげで、左の目はようやくなおりました。おばあさんは、

「自分のおろかなため、道理に合わないことを信じて、全くのめくらになろうとしました。恐しいのは迷信でございます。」

と、つねづね人に話しました。

★ 第十 「身体」
伴信友は、いつも健康に気をつけて、年をとるまで学問の研究につとめましたので、一生の間に、有益な本をたくさんあらわすことが出来ました。

信友はいつも姿勢に気をつけました。朝起きたときと、夜寝るときには、姿勢をただしくしてすわり、体に元気が満ちて来るように感ずるまで、三四十回、静かにいきを深く吸い、しばらくして静かにはき出しました。一日中、机に向かって、勉強しているときでも、少しも姿勢をくずしませんでした。

信友は、又、だらしのないふうをしないようにちゅういして、精神を引きしめることにつとめました。夏のまっさかり、どうかすると、気持がだれるようなときには、天井から刀をつるし、其の先が頭の上とすれすれになるようにして、本を読みました。又、冬の寒い日でも、こたつを用いませんでした。家の人が心配して、こたつにはいるようにすすめても、

「精神が引きしまらないから。」

と言って、ききませんでした。

信友は、朝は早く起きました。そうして、顔を洗うときには、つめたい水でひやしました。家の人たちに、「とりのなく頃に起きることがむずかしければ、夜明にはきっと起きよ。」と言って、早起をすすめましたので、家中、早起の習慣になりました。

信友は、朝夕、庭に出て弓を引きました。又、刃をつぶした刀をとって、何百ぺんもふりました。こうして、暑い時でも寒い時でも、一日も運動をやめたことがありませんでした。

信友は、かように身体をきたえましたので、年をとっても丈夫で、たくさんの本をあらわすことが出来たのです。

★ 第十二 「仕事に忠実に」
円山応挙は、毎日、京都の祇園の社へ行って、たくさんの鶏が遊んでいるありさまをじっと見ていました。人々は応挙の様子を見て、ばか者ではないかと思いました。こんなにして一年もたって、ついたてに鶏の画をかきますと、まるで生きているように出来ました。其のついたては、祇園の社におさめられました。それを見る人々は、みんなりっぱだとほめるだけでしたが、或日、野菜売のおじいさんが、しばらく見ていた後、「鶏のそばに草のかいてないのが大そうよい。」とひとりごとを言いました。応挙は、それを伝え聞いて、おじいさんの家に行き、其のわけを尋ねますと、おじいさんは、

「あの鶏の羽の色は、冬のものです。それで、そばに草のかいていないのが大そうよいと思ったのです。」

と答えました。其の後も、応挙は、町を歩いていても、鶏が居ると、足をとどめて、其の様子をじっと見つめて、いつまでもいつまでも動こうとしないことが、よくありました。こんなにねっしんであったので、応挙のかいた鶏には、誰も及ぶ者がありませんでした。

又、或時、応挙は、寝ている猪をかこうとしました。しかし、まだ、生きている猪を見たことがないので、よく来る柴売女に、猪を見つけたら知らせてくれるようにたのんでおきました。

或日、其の柴売女が、

「今、猪を見つけました。」

と言って、知らせに来ました。応挙は、飛立つ思で、さっそくかけつけますと、なるほど、竹やぶの中に、一匹の大きな猪が寝ていました。応挙はじっと猪を見て、手早くそれをしゃせいして帰りました。

間もなく、りっぱな猪の画が出来上がりました。そこで、或日、鞍馬から来た炭売のおじいさんに見せました。炭売のおじいさんは、しばらく眺めていましたが、

「これは、病気にかかっている猪をうつしたものではないでしょうか。猪は、眠っていても、背中の毛がさか立ち、足にも力がはいっていて、なかなか人をそばに寄せつけない勢があるものです。」

と言いました。

其のあとで、さきの柴売女がやって来て、

「あの猪は、間もなく、あそこで死にました。」

と知らせました。応挙は、せっかく苦心してかき上げた画を破ってしまいました。そうして、あらためて、たっしゃな猪の寝ているところを見て、せい一ぱいの力をこめてかきました。それを炭売のおじいさんに見せますと、

「これです。これです。此の通りです。」

と言って感心しました。世間の人も此の画を見てほめそやし、一時に応挙のひょうばんがあがりました。

★ 第十六 「寛大」
益軒には、とりわけ大切にしている牡丹があって、今をさかりと庭先に咲いていました。

或日、益軒がつとめに出たあとで、るす居をしていた書生が、隣の友達と、庭ですもうを取始めました。互に「えいや、えいや。」ともみ合っているうちに、どちらがどうしたはずみであったか、其の牡丹を折ってしまいました。

「しまった。」

と、書生が思った時は、もうだめでした。相手の友達と、あわてて枝を起してみたり、花をつないでみたりしましたが、もちろん、折れてしまったものは、どうにもなりません。しばらくおろおろしていた末に、隣の主人にたのんで、わびてもらうことにしました。

やがて、益軒が帰って来ました。隣の主人は、書生を連れて益軒の前に出ました。書生は何と言って叱られるかと思って、身をちぢめていました。

ところが、隣の主人から話をきいて、益軒は静かにこう言いました。

「私は、楽しむために牡丹を植えておきました。牡丹の事でおころうとは思いません。」

★ 第十九 「公益」
日本海方面の海岸では、秋の末から春先にかけて、海から烈しい風がよく吹きます。其のために、砂の多い海岸では、広い広い砂山が出来ている所もあります。今の秋田県の海べの村々では、其の風がことに烈しく、吹寄せた砂のために、昔は家も田畑もうずめられ、くらしの立たなくなる家も、たくさんありました。

或年、栗田定之丞という人が、其の地方の砂留役となりました。定之丞は、先ず村々を見て廻りましたが、海べは、見とおしもきかない程の広い砂山でした。「これだけの砂をどうして防ぐことが出来よう。」とただ驚きあきれるばかりでした。けれども又、これから後、此の砂山が田畑をうずめ、百年も二百年も、村々が苦しめられどおしに苦しめられることを思うと、じっとしてはいられない気がしました。「よし、戦場に出たつもりで根限り風や砂と戦ってみよう。」とかたく決心をしたのでした。

そこで、これまで砂留に骨折った年よりを呼んで、いろいろ話をきき、ここに先ずぐみややなぎなどを植え、いくらか砂がしまったところで、松の苗木を植えることにしました。そうして又季節を考え、植え方にくふうをして、寒中、それもなるべく風の吹く日をえらんで、人々を呼集めて仕事をさせました。風の吹く日には、砂の吹寄せられる方向がよくわかりますから、風上の方に、かやのたばなどで風よけをして砂を防ぎ、其のかげに、最初はぐみややなぎの枝をささせましたら、皆芽をふくようになりました。そこで、さらに松の苗木を植えさせました。定之丞は、此の方法で仕事を進めて行きました。ところが、人々は、風の吹く寒い日に働くのがつらいのと、うまく松林になるかどうかということが心配なのとで、なかなか定之丞のいうことをききません。定之丞は、子供をさとすようにやさしく道理を言いきかせ、其の上自分から先に立って働きました。朝は、夜の明けないうちから仕事場につめかけ、夜は、人々を帰らせた後まで居残って明日の仕事のくふうをしました。時には、冷たい砂の上にふして、風の当りぐあいをたしかめたこともあります。やがて村の人々も定之丞のねっしんに動かされて、仕事がはかどり、たくさんの苗木を植込むことが出来ました。それが次第に大きくなって、ついにりっぱな松林になりました。

定之丞は二十余年の間、引続き方々で、砂留の事に骨を折りました。其のために、風や砂の心配がなくなって、麦・粟などの畑もところどころに開け、又しょうろや、はつたけも生えるようになりました。此の地方の人々は其の恩をありがたく思い、定之丞のために栗田神社という社を建てて、今日まで年々のお祭をいたします。

社は今の秋田市の町はずれにあります。そこから見渡す海べには、定之丞が三百万本を植込んだという松原が続いて、青々とした美しい色をたたえています。

★ 第二十一 「志を立てよ」
野口英世は、三歳の時、ろにころがり落ちて、ひどいやけどをしました。母の一生けんめいのかいほうのかいがあって、命だけは助かりましたが、左の手に大きなきずが残り、指先のきかぬ不自由な体になりました。五歳・六歳となって、英世は、外に出て近所の子供たちと元気よく遊ぶようになりましたが、きょうそうでもして英世が勝ったときなどは、負けた子供たちは、くやしまぎれに、英世のかたわの手を笑いました。小学校に行くようになっても、友達はやはり其の手を笑いました。英世はそれをざんねんに思い、

「手は不自由でも、一心に勉強して、きっと、今に、りっぱな人になって見せるぞ。」

とかたく決心しました。

英世は、うちがびんぼうでしたから、毎朝早く起きて、近所の小川や沼に行って川魚をとって来て売り、其の金でふでやすみなどを買いました。

又、夜、本を読みたくても、あかりをともすことが出来ませんから、冬はろのたき火をたよりにし、夏は学校の小使室に行って、ランプの光で本を読みました。

英世はこうして、ゆうとうで尋常小学校をそつぎょうしました。

それから、或人の世話で、高等小学校に行くことが出来ましたが、英世は、遠い道をかよって一生けんめいに勉強しましたので、せいせきは一そうよくなりました。其のうちに、人々の親切で、医者のしゅじゅつを受け、手が余程自由に使えるようになりました。

手がよくなるにつけて、英世は、医術の人を助ける仕事であることを知り、医者の学問をして、世のため人のためにつくしたいという志を立てました。そこで、高等小学校をそつぎょうすると、さきにしゅじゅつを受けた医者にたのんで、其の弟子にしてもらいました。それからの英世の勉強は、一そう烈しくなりました。医者の手伝をするひまに、いろいろ医学の本を読み、外国語のけいこまでしました。

其の後、英世は、東京に出て、二十一歳の時、医者のしけんを受けますと、見事にきゅうだいして、一人前の医者になりました。

それからますます研究を進めるために、アメリカ合衆国に渡り、夜を日についでおこたらず勉強しました。そうして、医学の上でりっぱな発見をして世界に名高い学者になりました。又、いろいろのむずかしい病気をなおす方法をくふうして、人々を助けました。

昭和三年、アフリカへ渡って、人の恐れる熱病を研究しているうちに、それがうつって、五十三歳で、かの地でなくなりました。人々は、英世をあっぱれ人類の恩人と言って惜しまぬ者はありませんでした。

★ 第二十五 「人の名誉を重んぜよ」
昔、京都に、伊藤東涯という人がありました。父仁斎から二代続いた名高い学者で、いろいろの有益な本をあらわし、弟子もたくさんありました。

同じ頃、江戸には、荻生徂徠という有名な学者がありました。徂徠は、少しも遠慮をしない人でしたから、始は仁斎をそしったこともありました。しかし、東涯は少しも相手にならず、又人の事を決してかれこれ言いませんでした。

或時、東涯の弟子が、徂徠の作った文を持って来て、東涯に見せました。そこに来合わせていた二人の客も、其の文を見て、文字の使い方がおかしいとか、意味が通じないとか、盛に悪口を言いました。しまいに東涯に向かって、

「先生がごらんになったら、きずだらけでございましょう。」

と言いました。すると、東涯は、

「人をそしるのは、天に向かってつばきするようなものです。人はめいめい考が違うものであるから、軽々しく人の悪口を言うものではありません。まして、此の文は、むずかしい事を上手に書きあらわしてあります。今の世に、これだけの文の出来る者は、先ずないでしょう。」

と言いましたので、皆ははじ入ったということです。

2006年12月20日更新