★ 第三 「国法を重んぜよ」
昔、ギリシヤに、ソクラテスという賢人がありました。ソクラテスは、若い時から、国を愛する心が深く、三度も戦争に出て、国のために勇ましく戦いました。中年以後は、世人の迷をとき、正しい道をさとらせようとして、毎日町に出て人々と語り合いました。彼の真心のこもった道理のある話に、皆引きつけられて、次第に其の教に耳をかたむける者が多くなりました。殊に、青年は、彼の説に心服してしまいました。

ソクラテスのひょうばんが高くなるにつれて、ソクラテスに言いこめられた人々やソクラテスを誤解している人々は、彼をにくむようになりました。そうして、これらの人々は、しまいには、ソクラテスを罪におとしいれようとして、

「ソクラテスは、ギリシヤの青年を惑わす者である。」

と言って、彼をうったえました。ソクラテスは、法廷で、自分の正しいことを堂々と弁明しましたが、陪審の人々の投票によってソクラテスに罪があることにきまり、とうとう彼に死刑が言渡されました。

ソクラテスを信ずる人々は、どうかして彼を助けたいと思いました。ソクラテスの親しい弟子に、クリトンという人がありました。彼を助ける方法をいろいろ考えた末、或日牢屋へ行って、彼に面会して、

「あなたは、罪もないのに、死ななければならないわけはありません。今、ここを逃出す方法がありますから、すぐにお逃げなさい。」

と言って、しきりにすすめました。しかし、ソクラテスは、クリトンの熱心なすすめに従おうとしませんでした。かえって、いつものようにおだやかに、 「クリトン、お前の親切はありがたい。しかし、お前もよく知っている通り、私は、今日まで正しい道をふみ行い、人にもそうするようにすすめて来たのである。それを今、自分の命がおしいからと言って、一たん国法の命じたことにそむくようなことがどうして出来よう。国民たる者がそんな不正なことをするようでは、国は立って行くものではない。私も、私の父母や祖先も、皆国恩を受けて、一人前の人間になった。国あっての私たちです。国法の命ずることなら、どんなことでもそれに従うべきである。私は我が国を愛し、死を決して三度も出征した。それ程愛する我が国の、神聖な国法を踏みにじって、今さらどこへ逃げて行く気になれよう。クリトンよ、私たちは国法を守らなければならない。」

と説ききかせて、落着いていました。

★ 第九 「倹約」
上杉鷹山は、十歳の時に、秋月家から上杉家へ養子に来ました。十四歳の時から、細井平洲を先生として学問にはげみました。十七歳の時、米沢藩主となり、よい政治をしてひょうばんの高かった人であります。

鷹山が藩主になった頃は、上杉家には借財が多く、其の上、領内には凶作が続いて、領民も大そう難儀をしていました。鷹山は、此のままにしておいては家の亡びるのを待つより外はないと考えて、倹約によって家を立て直し、領民の難儀をすくおうとかたく決心しました。

鷹山は、先ず江戸にいる藩士を集めて、

「此のまま当家の亡びるのを待っていて、人々に難儀をかけるのは、まことに残念である。これ程衰えた家は立て直す見込がないと誰も申すが、しかし此のまま亡びるのを待つよりも、心をあわせて倹約をしたら、或は立ち行くようになるかも知れない。将来のために、今日の難儀は忍ばなければならない。志を一にして、みんな一生けんめいに倹約しよう。」

と言いきかせました。しかし、藩士の中には、鷹山に従わないで、

「殿様は小藩におそだちになったから、大藩の振合を御存知ない。」

などと悪口を言う者もあり、又、

「皆の喜ばないことは、おやめになった方がよろしゅうございましょう。」

といさめる者もありました。

しかし、鷹山は少しも志を動かさず、藩士たちに倹約の大切なことをよく説ききかせました。なお平洲に教を受けますと、平洲は、

「勇気をはげまして志を決行なさいませ。」

と言いましたので、鷹山は益々志をかたくして、領内に倹約の命令を出しました。そうして、先ず自分のくらしむきをずっとつづめて、大名でありながら、食事は一汁一菜、着物は木綿物ときめて、実行の手本を示しました。

鷹山は、或日平洲に向かって、

「先生、私は人々と難儀を共にしようと思って倹約をしています。しかし、衣服も、上に木綿の物を着て下に絹・紬をかさねていては、ほんとうの倹約になりませんから、下着も皆木綿の物を用いて居ります。」

と申しました。

かように鷹山は誠実に倹約を守っていましたが、りっぱな大名が、まさか、上衣はもちろん下着までも木綿を用いようとは、側役の人たちの外、誰も信じませんでした。

或日、鷹山の側役の者の父が在方へ行って、知合の人の家にとまったことがありました。其の人がふろにはいろうとして着物をぬいだ時、粗末な木綿の襦袢だけは、ていねいに屏風にかけて置きました。主人はふしぎに思って、

「どうして襦袢だけそんなに大事になさいますか。」

と尋ねますと、客は、

「此の襦袢は、殿様がお召しになっていたものをいただいたのですから。」

と答えました。主人は、それを聞いて、大そう藩主の倹約に感じ入り、其の襦袢を家内の人たちにも見せて、倹約をするようにいましめました。それから、藩士はもちろん、領内の人々が此の話を伝え聞いて、鷹山の倹約の普通でないことを知り、互につつしみ、よく倹約を守るようになったので、しまいには、上杉家も領内一般もゆたかになりました。

★ 第十 「産業を興せ」
鷹山は、領民の難儀をすくうため、倹約をすすめた上に、なお産業を興して領内を富まそうとはかりました。荒地を開いて農業をいとなもうとする者には、農具の費用や種籾などを与え、三年の間の租税を免じました。鷹山は、自ら荒地を開く所を見てまわり、或は村々に入って、耕作の有様を見て人々の苦労をなぐさめました。時には、老婆の稲刈にいそがしいのを見て、其の運搬を手伝ってやったこともありました。又命令を出して、村々に馬を飼わせたり、馬の市場を開かせたりなどして、農業を盛にする助としました。

鷹山は、又養蚕をすすめました。領内には、まずしくて桑を植えることの出来ない者も多くいましたが、藩には貸与える金がないので、鷹山は役人を呼んで、

「物事は、急に成しとげようと思ってはならない。小を積んで大を成し、ながく続くようにすることが大切である。自分の衣食の費用は出来るだけきりつめてあるが、なおしんぼうして、毎年五六十両ずつ出そう。それを養蚕奨励の費用にあてて、十年二十年とたったならば、どれ程か結果があらわれよう。自分が倹約して養蚕をすすめると聞いたなら、財産のある者は、進んで土地を開き、桑を植えて蚕を飼おうとする考を起すであろう。」

と言いました。役人は、大いに感じ入って、養蚕役場を設け、鷹山の衣食の費用の中から年々五十両ずつ出して、其の金で桑の苗木を買上げて分けてやり、又は桑畑を開く費用として貸付けてやって、其の業をはげましました。

なお鷹山は、奥向で蚕を飼わせ、其の糸で絹や紬を織らせました。又領内の女子に職業を授けるために、越後から機織の上手な者をやとい入れて、其の方法を教えさせました。これが名高い米沢織の始であります。

鷹山はかように心を産業に用いましたから、領内は次第に富み、養蚕と機織とは盛に其の地方に行われ、米沢織は、全国に名高い産物の一つとなりました。   なせばなるなさねばならぬ何事も
      ならぬは人のなさぬなりけり

★ 第十一 「進取の気象」
伊藤小左衛門は伊勢の室山の人で、味噌・醤油の製造を業としていました。小左衛門は一家の人々と心をあわせて家業にはげんだので、家は次第に繁昌し、室山味噌のひょうばんは世間に高くなりました。或年、大地震があって、其の倉がおおかたつぶれました。其の上、雨が長く降続いて、味噌・醤油は大てい腐ってしまいました。其のために、さしも繁昌していた伊藤の家もにわかに衰えました。世間の人は、「いくら室山の味噌屋でも、あれ程の災難にあっては、もとの身代になることはむずかしかろう。」と、うわさし合っていました。小左衛門には三人の弟がありましたが、小左衛門は弟たちと、「今から兄弟が心をあわせ、他人の力にたよらないで、一生けんめいに家業にはげみ、三年の後には、きっともとの通りに家を繁昌させて見せよう。」とちかい、兄弟手わけをして、日夜仕事につとめました。そうして三年たたないうちに、前よりもりっぱな倉が出来、もとの通りに家が繁盛するようになりました。

其の後、横浜の港が開けた頃、小左衛門は、或日書物を読んで、外国では茶や生糸の需要が多いことを知り、それらの品を外国に売出して国益を増そうと思い立ち、製茶・製糸の業を始めました。

小左衛門は、先ず横浜へ行って、外国人相手の商売の様子を調べました。そうして、人を方々にやって茶を買集めさせ、これを横浜へ送って外国人に売りました。それから、野山を開いて茶の木を植え、栽培のしかたに苦心し、製茶の法にも工夫をこらしたので、数年の後には、よい茶がたくさん出来て、外国に売出すようになりました。始め、其の地方の人々にも茶の木を植えることをすすめましたが、誰もきき入れなかったのに、小左衛門の成功を見て、我も我もと、製茶を始めるようになりました。

小左衛門は又桑を植えて蚕を飼い、製糸業を興しました。始はわずか二人の工女をやとい、手ぐりで糸をとらせ、それから、次第に人数を増して仕事を大きくしました。しかし、手ぐりではどうしてもよい品が出来ないので、機械で糸をとることを思い立ちました。製糸にけいけんのある人たちに聞くと、機械で糸をとるのは利益が少ないということでしたが、小左衛門は、

「手ぐりでは、とても外国に向く糸はとれぬ。ただ目さきの利益ばかりを考えては、品質の改良は出来るものではない。」

と言って、機械をすえて製糸を始めましたが、果して出来ばえがわるくて損をしました。そこで、小左衛門は上野の富岡へ行って、製糸法を調べて帰り、機会を改め、その数を増して仕事にはげみました。ところが、やはりよい品が出来ず、また損をしました。しかし一度や二度の損や失敗に屈する小左衛門ではありません。さらに新しい蒸気機械をすえ付け、又親類の者を富岡へやって製糸法を習わせ、一生けんめいに製法の進歩をはかりました。かように苦心に苦心を重ねた末、とうとう外国商人もほめる程のよい品が出来るようになりました。又其のために此の地方の製糸業もだんだん盛になって来ました。

★ 第十二 「自信」
アメリカ発見で名高いコロンブスは、今からおよそ五百年程前、イタリヤのゼノアに生まれました。海が好きで、十四の時から船乗になりました。其の頃は、地理の学問が開けず、又さまざまの迷信があって、まだ遠洋の航海を企てる者はありませんでした。

コロンブスは、いろいろの記録や報告を深く研究して、「世界は水と陸とで出来ていて、其の形は球のようなものである。」という説を信じ、「ヨーロッパから西へ向かってどこまでも進んで行けば、きっとアジヤの東部、日本か支那に達することが出来る。」と言出しました。しかし、其の頃の人は、世界は平たいものとばかり思っていたので、コロンブスの言うことを誰一人として信ずる者がなく、ただあざけり笑うばかりでした。

コロンブスは、少しもそれに屈せず、さらに熱心に研究を続けて、いよいよ自分の考えていることにまちがいはないとかたく信じました。それからは、すっかり心が落着いて、誰の前に出ても、自分の考ははっきりと言えるし、人のひょうばんなどで心を動かすようなこともなくなりました。

コロンブスは、自分の考え通りに航海してヨーロッパからアジヤに至る航路を開きたいと思い立ち、航海の費用を出してくれる人を探して、久しい間、ヨーロッパの各地を旅行しました。しかし、誰もコロンブスの企を助けてくれる人がなく、非常な貧苦におちいり、其の日の食物にも困るようになりました。

しまいに、イスパニヤの皇后イサベラにお目にかかることが出来、其の志をのべて助をこいました。皇后はコロンブスの人物を見込み、又其の企の決して空想でないことを信じて、願い通りに費用を出されることとなりました。そこでコロンブスは三ぞうの帆前船を仕立て、百二十人の水夫を乗込ませ、喜び勇んでイスパニヤの港を出帆しました。

それから、大西洋を西へ西へと進んで幾日か過ぎました。行っても行っても水また水で、陸地の影さえ見えません。水夫たちは、心配になって来ました。やがて自分たちの船の二倍も三倍もあったかと思われる船の帆柱がただよっているのを見つけました。それを見ると、水夫たちは恐しくなって、とてもこんな小船で行ける処ではないと言ってさわぎ出しました。しかし、コロンブスは自信に満ちて、顔色も変えず、静かに水夫たちをなだめました。

一度は大あらしに出あったこともありましたが、幸い三ぞうがはなればなれになることもなく、それからは追風になって、船は矢のように走りました。或日、陸地が見えたという合図の鉄砲が鳴りました。行手を見渡すと、なるほど黒い島が横たわっています。喜んで船を走らせると、どこまで行っても島らしいものはなく、翌朝になって一片の雲であったことがわかりました。そんなことが度々あって、水夫たちは全く失望してしまいました。そうして、すぐにイスパニヤに引返してくれなければ、コロンブスを海に投込んで、自分たちだけで帰ろうとたくらみました。コロンブスは水夫たちをおどしたりすかしたりして、なお先へ先へと進行を続けました。或夜、コロンブスは、前方に当って火の光を見たと思いました。其の夜明に近く、先頭の船から合図の砲声が聞えました。果して、はるかかなたに陸地が見えて来ました。それはイスパニヤを出帆してから、ちょうど七十一日目の朝のことでした。人々は喜び勇んで、望を達したことを祝し、皆コロンブスの先見に服し、さきにののしりさわいだことをわびました。

コロンブスが上陸したのは、今のサンサルバドル島でした。コロンブスは、これをアジヤの東部にちがいないと思って、一たんイスパニヤに帰って皇后に報告しました。それから二度三度と航海して、三度目に始めてアメリカの新大陸を発見したのでした。

★ 第十五 「度量」
西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んでいた頃、或日、友達や力士を集めて庭で相撲をとっていると、取次の者が来て、

「福井藩の橋本左内という人が見えて、ぜひお目にかかりたいと申されます。」

と言いました。一室に通し、着物を着かえてあって見ると、左内は、二十歳余りの、色の白い、女のようなやさしい若者でした。隆盛は、心の中で、これではさほどの人物ではあるまいと見くびって、余りていねいにあしらいませんでした。左内は、自分が軽蔑されていることをさとりましたが、少しも気にかけず、

「あなたがこれまでいろいろ国事にお骨折りになっていると聞いて、したわしく思っていました。私もあなたの教を受けて、及ばずながら、国のために尽くしたいと思います。」

と言いました。

ところが、隆盛は、こんな若者に国事を相談することは出来ないと思って、そしらぬ顔で、

「いや、それは大変なおまちがいです。私のようなおろかな者が国のためをはかるなどとは、思いも寄らぬことです。ただ相撲が好きで、御覧の通り、若者どもと一しょに、毎日相撲をとっているばかりです。」

と言って、相手にしませんでした。それでも、左内は落着いて、

「あなたの御精神は、よく承知しています。そんなにお隠しなさらずに、どうぞ打ちあけていただきたい。」

と言って、それから国事について自分の意見をのべました。隆盛はじっと聞いていましたが、左内の考がいかにもしっかりしていて、国のためを思う真心のあふれているのにすっかり感心してしまいました。

隆盛は、左内が帰ってから、友達に向かい、

「橋本はまだ若いが、意見は実にりっぱなものだ。見かけが余りやさしいので、始め相手にしなかったのは、自分の大きな過であった。」

と言って、深く恥じました。

隆盛は、翌朝すぐに左内をたずねて行って、

「昨日はまことに失礼しました。どうかおとがめなく。これからはお心安く願います。」

と言ってわびました。それから、二人は親しく交り、心をあわせて国のために尽くしました。

左内が死んだ後までも、隆盛は、

「学問も人物も、自分がとても及ばないと思った者が二人ある。一人は先輩の藤田東湖で、一人は友達の橋本左内だ。」

と言ってほめました。

★ 第十六 「朋友」
新井白石は、九歳の時から日課を立てて、少しのひまもむだにせず、一生けんめいに学業にはげみました。後、木下順庵という名高い学者の弟子となって、貧苦をこらえて益々勉強したので、日に日に学問が深くなりました。

順庵は、白石を見込んで、自分の昔仕えていた加賀の藩主に推薦することにしました。加賀は百万石の大藩で、藩主もひょうばんの高いすぐれた人でした。 其の頃、順庵の弟子に岡島石梁という者がありました。其の事を聞いて、白石に向かい、

「加賀は自分の郷里で、家には年よった母がただ一人、自分の帰る日を待ちくらしている。此の頃来た手紙で見ると、大そう老い衰えたようで、心細いことばかり書いている。もし先生のおとりなしで、自分が加賀の殿様に仕えることが出来たら、母もどんなに喜ぶか知れない。」

と言いました。白石はそれを聞くと、すぐに順庵の所へ行き、其のわけを話して、

「私はどこでもよろしゅうございます。加賀へはどうか岡島を御推薦下さい。」

と願いました。順庵は白石が友情に厚いのに感心して、其の通りにしました。そこで石梁は、喜んで、故郷に錦をかざることになりました。

翌年、甲斐の藩主から、順庵の一の弟子を召しかかえたいと申し込んで来たので、白石は順庵の推薦によって、甲斐の藩主に仕えることになりました。

★ 第十七 「信義」
加藤清正は、豊臣秀吉と同じく尾張の人であります。

三歳の時、父をうしない、母の手で育てられていましたが、母が秀吉のいとこの間柄でしたから、後には秀吉の家に引取られて育てられました。

十五歳の時、一人前の武士として秀吉に仕え、度々軍功をたてて、次第にりっぱな武将となり、後には肥後を領して秀吉の片腕となりました。

秀吉は、其の頃乱れていた国内をしずめ、更に明国を討つために、兵を朝鮮へ出しました。清正は、一方の大将となって、彼の地へ渡りました。清正の親しい友達に、浅野長政という人がありましたが、其の子の幸長も、朝鮮に渡って勇ましく戦っていました。ところが、或時、幸長が蔚山の城を守っていた所へ、明国の大兵が攻寄せて来ました。城中には兵が少い上に、敵がはげしく攻立てるので、城はたちまち危くなりました。そこで、幸長は、使を清正の所へやってすくいを求めました。清正の手もとには、敵の大兵に当る程の兵力がありませんでした。けれども、清正は、其の知らせを聞くと、

「自分が本国をたつ時、幸長の父長政が、くれぐれも幸長の事を自分に頼み、自分もまた其の頼みを引受けた。今もし幸長を早くすくわなかったら、自分は長政に対して面目が立たない。」

と言って、身の危険をかえりみず、部下の五百騎を引連れて、すぐに船で出発しました。味方の船は、僅かに二十そうばかり、清正は、銀の長帽子のかぶとをつけ、長槍をひっさげ、船のへさきに突立って部下を指揮し、手向かって来る数百そうの敵船を追散らし囲を破って蔚山の城にはいりました。それから、幸長とここに立てこもり、力を合わせて、明国の大兵を引受け、さんざんにこれをなやましました。其のうちに、ひょうろうが尽き、飲水もなくなって、非常に難儀をしましたが、とうとう敵を打破りました。

格言_義ヲ見テ為ザルハ勇ナキナリ。

★ 第十八 「誠実」
清正は、嘗て石田三成等のざんげんで秀吉の怒を受けて、伏見の屋敷に謹慎していたことがありました。其の時、或夜大地震があって、たくさんの家が倒れました。

清正は、秀吉の身の上を気づかって、二百人ばかりの部下を引連れて、真先に伏見の城にかけつけ、夜が明けるまで城門を守っていました。秀吉がはるかに清正を見ますと、清正は、此の年月遠く外国に出て戦ったため、日にやけて色も黒く、やせ衰えていました。其の難儀を重ねた様子がいかにも気の毒でしたので、秀吉も思わず涙を流して清正の遠征の苦労を思いやりました。そうして、今夜の清正の行に感心して怒もおのずからとけました。そこで、あくる日、清正を呼出して、ざんげんのことを自らききただしたが、清正に罪のないことが明らかになったので、かえって褒美を与えてほめました。

秀吉がなくなった後、其の子の秀頼は、まだ幼くて、大阪城にいました。其の頃、徳川家康の勢が大そう盛になり、豊臣氏の恩を受けた者も、次第に家康について、秀頼をかえりみる者が少くなりました。しかし、清正は相変らず秀頼のために心を尽くし、大阪を通る度に、きっと秀頼の安否を尋ねました。家康は、それをきらって、そっと人に言いふくめて、やめさせようとしました。

清正は、

「大阪城を通りながら、秀頼公の御きげんを伺わないのは、武士たる者の道ではない。又太閤の御恩を忘れては相すまない。」

と言って、ききませんでした。

或時、秀頼は、家康から、京都で対面したいと申し込まれました。秀頼の母は、家康に敵意のあることを疑って、秀頼が京都に行くことに同意しませんでした。けれども、清正は、もし秀頼が此の対面をことわったなら、豊臣氏と徳川氏との仲が悪くなるであろうと心配して、

「私が命にかけておまもり致しますから、ぜひお出でを願います。」

と言ってすすめました。そこで、秀頼は、清正と一しょに京都へ行くことになりました。

清正は、途中、徒歩で秀頼の乗物の側につきそって、京都の家康の所へ行きました。家康は、自らげんかんまで秀頼を出迎えて奥の間に通し、互にあいさつをかわし、それから御ちそうをしました。清正もおしょうばんをしましたが、よい頃をはかって、

「さぞ、大阪では、お待ちかねのことでございましょう。さあ、お立ちなさいませ。」

と申しましたので、家康も、

「御もっとも。さてもさても、御成人でおめでたい。」

と言って、みやげをおくり、げんかんまで見送りました。清正は、二人の対面の間は、少しもゆだんなく秀頼の側に居り、帰りにも秀頼の身をまもって、無事に大阪に帰り着きました。其の時、清正は、万一の用意にと、かねてふところに入れていた短刀を取出し、

「今日、いささか太閤の御恩に報いることが出来た。」

と言って、涙を流しました。

★ 第十九 「謝恩」
豊臣秀吉の夫人は高台院といって、夫によく事えて、内助の功の多かった人であります。夫人はもと織田信長の足軽杉原助左衛門という者の娘でした。生まれた時から、同じ信長の家来の伊藤右近という人に世話になり、親切に養育されました。大きくなると、よい家に奉公に出してもらい、行儀などを見習いました。

其の頃秀吉は、木下藤吉郎といってまだ低い身分でしたが、夫人を妻にもらおうと思って、其のことを申し入れました。夫人は先ず右近の所へ行って相談すると、右近は、「藤吉郎はちえのすぐれた人だから、末のためによろしかろう。」と言って嫁入させました。其の時、右近は、貧しい中から、夫人に、夜着・ふとんや、鏡・くし・こうがいなど、いろいろの支度をととのえて与えました。

其の後、藤吉郎は、次第に立身出世し、とうとう太閤秀吉といって、日本国中の人から敬われる身になりました。太閤夫人となった高台院は、昔世話になった右近夫婦のことを忘れず、方々をさがさせてやっと尋ね出しました。其の頃、右近は落ちぶれて、名をかくしていなかにかくれていました。秀吉夫婦は、それを大阪城に招いてねんごろにいたわり、昔のことなどを語り出し、涙を流して礼をのべ、夫人自らけっこうな物をたくさん取出して与えました。

此の時、夫人は、右近等の側に寄って、

「御身たちの綿入はよごれています。昔のお礼に、私に洗濯させて下さい。」

と言って、新しい着物に着かえさせました。それから十日ばかりたつと、また二人を城に招いて、先日の洗濯が出来上ったからと言って、夫人が手ずから仕立てかえてきれいにした綿入を渡しました。秀吉は、右近に禄を与えて、其の後は、大阪に住まわせることにしました。

★ 第二十 「博愛」
ナイチンゲールは、イギリスの大地主の娘でした。小さい時から、情深い人で、常に貧しい家を見まって、不幸な人をやさしくなぐさめていました。又、生き物をあわれみ、犬猫などが病気をしたり、けがをしたりしたのを見ると、薬を与えてかいほうしてやりました。ナイチンゲールは、大きくなってから、毎年ロンドンへ行って市中の病院をたずね、気の毒な人たちの様子を見まっていましたが、二十五歳の時、ドイツ・フランス・イタリヤの諸国を旅行して、行く先々で病院や盲唖院などを視察しました。二十八歳の時、再びドイツへ行って看護婦学校にはいり、約六箇月で卒業して帰りました。

ナイチンゲールは、それからロンドンで貧しい人たちをすくう病院の世話を引受け、自らたくさんの金を出して、不幸な人々を助けることに骨折りました。 ナイチンゲールが三十四歳の時、クリミヤ戦役という戦争が起りました。これは、イギリスとフランスが一しょになって、トルコを助けて兵をクリミヤ半島に進め、ロシヤと戦った戦争です。戦がはげしかった上に、コレラ・赤痢などがはやったので、負傷兵や病兵がたくさんに出来ましたが、遠く本国とへだたった戦地のこととて、医師も看護をする人も少いために、軍隊は大そう難儀をしました。情深いナイチンゲールは、それを聞くと気の毒でたまらず、負傷兵を看護して国のために尽くすのは此の時であると思って、陸軍大臣の許可を得、三十余人の看護婦を引連れて、はるばる戦地へ向かいました。 戦地に着くと、直ちに野戦病院に入り、看護婦たちをさしずして、傷病兵の看護に当りました。重い病人も、ナイチンゲールが病床に来てなぐさめる時には、嬉しさの余り、声を立てて泣きました。夜、医師の退いた後にも、ナイチンゲールは、小さい灯火を持って、一々傷病者を見まってなぐさめました。ナイチンゲールは、かように一生けんめい看護をしているうちに、余り働き過ぎたためか、自分も病気になりました。医師たちは心配して、皆、国に帰ることをすすめましたが、きき入れないで、病気がなおると、また力を尽くして傷病兵の看護につとめました。

戦争がすんでイギリスへ帰った時、ナイチンゲールは、女帝にはいえつを許されて厚くおほめにあずかり、又イギリス国民は、たくさんの金をおくって其のてがらをほめました。しかし、ナイチンゲールは、其の金を皆看護婦学校をたてる基本金に寄付して、少しもてがらをじまんするようなことはありませんでした。

博く人々を愛するのは、我等の守るべき道であります。災難にあった不幸の人をあわれむのはもちろん、たとい敵国の人でも、傷を受けたり、病にかかったりして死ぬような苦しみをしている者を助けるのは、博愛の道にかなうものであります。

日本人は、昔から、博愛の心の深い国民であります。明治三十七八年戦役の時、我が国の将士が博愛の道に尽くした美談は、我が軍の武勇のほまれと共に、世界にとどろいています。中にも深く人々を感動させたのは、明治三十七年八月十四日の海戦の時の、我が上村艦隊のりっぱな行であります。其の日、上村艦隊は、朝鮮の蔚山沖で敵ロシヤのウラヂボストック艦隊が南をさして進んで来るのを見つけて、ここに大激戦を開き、敵艦一そうを打沈め、他の二そうに大損害を与えました。敵艦の沈没する時、我が艦隊は、すぐ其の所へ行って、おぼれかかっている敵を六百余人もすくい上げました。

★ 第二十二 「忠君愛国」
吉田松陰は長門の人であります。小さい時から、父母や叔父の教をよく守って学問にはげみましたので、学業が大そう進みました。十一歳の時に、藩主の前に呼出されて、兵書の講釈をいいつけられましたが、大ぜいの家来のならんでいるところで、見事に講釈をしたので、藩主を始め皆大そう感心しました。

松陰は、少年の頃、父から我が国がりっぱな国であることを教えられ、又先輩に外国の事情を聞いて、国のために尽くそうと志を立てました。それから、各地を旅行して、すぐれた人にあって教をこい、又内外の事情を知ることにつとめました。

其の頃アメリカ合衆国の軍艦が我が国に来て、交際を求め、通商をせまりました。しかし、我が国は、久しい間、外国と交際をしなかったので、どうしたらよいかと国中大さわぎをしました。松陰は、此の国難をすくって国のために尽くそうと苦心しましたが、自分一人の力では出来ないことを知り、藩主にいろいろと意見書を出しました。其の一つを時の天皇が御覧になったと聞いて、松陰は感泣しました。

松陰は、「我が国は万世一系の天皇のお治めになる国であって、我等は祖先以来、天皇の臣民である。天皇は皇祖皇宗の大御心のままに臣民をいつくしませ給い、臣民は祖先の志をついで、天皇に忠義を尽くしてきた。天皇と臣民とは、一体をなし忠と孝とが一致している。これが我が国の万国にすぐれたところである。誰でも日本人と生まれた者は、我が国体がかように尊いことをわきまえるのが、最も大切なことである。」と信じ、先ず自分の郷里から始めて、全国の人に此の事を知らせて、忠君愛国の精神を振るい起させようと決心しました。

二十八歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて、真心をこめて弟子たちを教えました。或時は、十歳ばかりの幼い弟子が新年におけいこに来たのを喜び、親切に教えてやってはげましました。又霜の深い夜、炉をとり囲んで、弟子たちと国事を語り明かしたこともありました。毎日ひるのおけいこがすむと、松陰は、弟子たちと一しょに、畠を耕したり、米をついたりしました。

後には、塾に来る者が次第にふえて、八畳の一室では狭くなりましたから、皆相談して一室を建増そうということになり、先生も弟子も力を合わせ、柱を立て、壁をぬって、十畳半の一室を作り上げました。

かようにして松陰は、弟子たちと寝起きや食事を共にして、書物を読み、意見をたたかわせ、熱心に教え導きました。そうして、「松本村は、片いなかではあるが、此の塾からきっと御国の柱となるような忠義な人が出る。」と言って弟子たちをはげましました。

松陰は、三十歳でなくなりましたが、国体を明らかにし、皇室を尊び、我が国を盛にしようとした其の精神は、弟子たちにうけつがれ、果して其の中から、りっぱな人物が出て、御国のために尽くしました。

  身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
      留め置かまし大和魂

★ 第二十三 「兄弟」
松陰には、一人の兄と四人の妹と一人の弟がありました。みんな仲よくして助け合いました。

松陰の兄を梅太郎といい、すぐの妹を千代といいました。此の三人は兄弟中でも年のちがいも少く、家がまだ貧しい時に一しょに育ちましたので、助け合うことも多うございました。松陰は、兄と共に父や叔父の教を受け、二人で互にはげまし合いながらよく勉強しました。松陰は、大きくなって、国のために尽くす大志を抱き、全国を旅行したり、江戸にとどまっていたりして、家に帰ることは少かったが、兄の梅太郎は、よく父母に事えて、故郷のたよりを、常に弟の松陰に知らせてやりました。又松陰のために書物をととのえて送り、松陰の苦労をなぐさめて其の志をはげましました。松陰は、外に出ていても常に我が家のことを忘れず、父母の側にいて事えることの出来ないのを残念に思い、兄や妹に、自分に代って父母に事えてくれるように頼みました。或年の正月、松陰は兄に手紙を送って、

  朝日さす軒端の雪も消えにけり
      わが故郷の梅やさくらん

という歌をよみ、新年のおよろこびをのべ、けさはおぞうにをたくさんいただいて、少年の頃、一しょに楽しいお正月を迎えたことを思い出したと言って、喜びました。

松陰は妹たちをかわいがりました。妹の小さい頃には、書物を教えたり、字を習わせたりしました。大きくなって他家へ嫁入してからも、手紙をやって、家をととのえ子供を教える道をこまごまと書いて与えました。

其の中に、

「およそ人の子の、かしこきもおろかなるも、よきもあしきも、大てい父母のおしえによる事なり。」

と記して、殊に子供の幼い間は、母の教が大切であると誡めました。又、

「神明をあがめ尊ぶべし。大日本と申す国は、神国と申し奉りて、神々様の開きたまえる御国なり。」

と記して、神を敬うべきことを教えました。

妹は、これらの教を長く忘れず、松陰がなくなった後も、其の手紙を出して見ては、兄の親切を思い出して泣いたということです。

★ 第二十四 「父母」
松陰が妹に与えた手紙に、「自分たちの家には、りっぱな家風がある。神様を敬うこと、祖先を尊ぶこと、親類とむつまじくすること、学問を好むこと、又田畑を自分で作ることなどである。これらのことは、父母の常になされるところであって、自分たちはそれにならわなければならぬ。これが孝行と申すものである。」と教えてあります。

松陰の父は、杉百合之助といいました。松陰が少年の頃までは、家禄ばかりでは、くらしを立てることが出来ないので、農業につとめました。しかし、読書が好きで、米をつくときにも書物を読み、又畠に出ても、あぜの草の上に書物を置いて、仕事の休の折に読みました。松陰兄弟が大きくなってからは、かような時にも兄弟に書物を読んできかせました。米つき場のあたりや田畑のあぜで、親子の読書の声が聞えると、松陰の叔父は、「やあ、またにいさんのが始まった。」と言いました。百合之助は、常々松陰たちに、「むだ話をするひまがあるなら、書物を読め。」と言って誡めました。

百合之助は、神を敬い祖先を尊びました。毎朝早く起きて井戸から新しい水をくみ、祖先の霊前に供えて拝みました。祖先の祭日には、殊につつしんでお祭をしました。毎月一日には、必ず、身体を清め衣服をあらためて、氏神に参りました。

松陰の母は、瀧子といいました。二十歳の時、百合之助に嫁し、よく夫を助けて野に出て田畑を耕したり、山へ行って薪をとったりして、仕事に骨折りました。又よく姑に事え、我が子の養育につとめ、裁縫・洗濯のことから家事一切をひとりで引受けて、かいがいしく立働き、馬を飼う世話まで自分でしました。

瀧子は、姑によく事えました。三度の食事には温い物をすすめ、衣服は柔かい物を着せていたわり、裁縫する時などは、姑の側で、喜ばれるような話をしてきかせてなぐさめました。又姑の妹が此の家に世話になっていたが、或時、重い病気にかかりました。瀧子は久しい間、夜もろくろく寝ずに介抱したので、姑は、「忙しくてひまがないのに、親類の世話まで親切にしてくれて、まことにありがたい。」と言って、涙を流して喜びました。

後、百合之助は、藩の役人に取立てられて、役宅にうつりましたが、瀧子はとどまって、よく家をととのえ、松陰たちの養育につとめました。

松陰の父母は、かように心をあわせて、父は業務にはげみ、母は夫を助けて家をととのえ、又共に我が子の教育に力を用いましたので、家も栄えるようになり、子供は皆心掛のよい人になりました。中にも松陰は、国のために尽くし、度々難儀に出あいましたが、いつも父母は、我が子をはげましたり、いたわったりして、よく尊皇愛国の道に尽くさせました。松陰が松下村塾を開いていた間も、父は、公務のかたわら何くれと松陰の相談相手となって助け、母は、弟子たちを我が子のようにいつくしみ、又松陰をたずねて来る人々を親切にもてなしました。

2006年12月24日更新