★ 第六 「勤勉」
伊能忠敬は上総に生まれ、十八歳の時下総佐原の伊能氏の家をつぎました。伊能氏は代々酒を造るのを業とし、土地で評判の資産家で、いろいろ地方のためにも尽くしていましたが、忠敬が家をついだ頃は大分衰えていました。そこで忠敬は、どうかしてもとのように盛にしようと思って、一生けんめいに家業にはげみ、自分が先に立って倹約したので、家は次第に繁昌して、四十歳になる頃には、以前よりもゆたかになりました。忠敬は関東に二度もききんがあった時、其の都度、家風に従って、金や米をたくさん出して、困っている人々を助けました。又公職に就いて、村のためによく尽くしました。忠敬は、五十歳の時家を長男にゆずり、翌年江戸に出ました。其のまま引込んで楽をしようというのではなく、専ら学問をして世のために尽くそうと志したのであります。忠敬はもとから天文・暦法が好きで、これまでも仕事のひまひまには怠らず勉強をしていたので、其の知識はかなり深くなっていました。或日、高橋至時という天文学者をたずね、其の西洋暦法にくわしいのに感心して、自分よりも十九も年下の至時の弟子になって教を受けることとしました。それから数年間倦まずたゆまず勉強したので、学問が大いに進み、特に観測の術にかけては、同門中彼に及ぶ者がない程に上達しました。

五十六歳の時、人跡稀な北海道の南東海岸を測量し、地図を作って幕府にさし出しました。其の後、幕府の命を受けて諸方の海陸を測量することになり、寒暑をいとわず遠方まで出かけて、とうとう全国の測量を成し遂げました。其の時すでに七十二歳に達していましたが、それからもからだの自由のきかなくなるまで、日本地図を作ることにつとめて、遂に大中小三種の精密な地図を作り上げました。我が国の正しい位置や形状が始めて明らかになったのは、全く忠敬の勤勉のたまものであります。

格言 精神一到、何事カ成ラザラン。

★ 第七 「師弟」
忠敬の先生の至時は、幕府の天文方でした。四十歳の時オランダの新しい暦法の書物を得たので、僅か半年の間に、不十分な語学の力でそれを読終った上に、其の書物について著述までもしました。もとから病身であった至時は、此のはげしい勉強のために大そう健康を損じて、翌年なくなりました。

至時は忠敬の根気のよいのに感心し、特に力を入れて教え、又後には、北海道の他の測量を忠敬にさせるように幕府にとりなしました。そうして新しい知識を得ると、すぐ忠敬にそれを伝え、忠敬はすぐまたそれを実地に応用して、師弟一体になって学問のために力を尽くしました。至時の死んだ時には、忠敬は非常に力を落としましたが、先生の教を空しくしてはならぬと思い、其の後は一そう骨折って、とうとう日本全国測量の大事業を成し遂げました。

忠敬は七十四歳でなくなりましたが、死ぬ時に、

「自分にこれだけの事業が出来たのは、全く高橋先生のおかげであるから、自分が死んだ後は先生の側に葬ってもらいたい。」

と家族の者に言いのこしました。今でも浅草の源空寺には、此の師弟の墓が並んで立っています。

★ 第八 「自立自営」
渋沢栄一は、明治になる少し前、利根川のほとり、熊谷の近くの血洗島という村に生まれました。家は農耕・養蚕を業とし、かたわら藍玉商を営みました。栄一は勤勉で誠実な父と慈愛深い母とに大切に育てられましたが、決してそれにあまえてはいませんでした。少年の頃から学問が好きで、又剣道にもはげみました。同時に農事に勤め、熱心に商売の手伝もしました。

十四歳の時の事でした、父が藍玉取引のため遠くへ出向いた留守に、栄一はかねて望んでいたように自分で商売をしてみるのは此の時だと思い、父が年々取引をしている近くの村々へ、父に代って藍の買入に出かけました。ところが、人々はこんな少年に藍の良否がわかるものかと侮って、一向相手にしてくれません。それに構わず、栄一は行った所で藍を取上げて、これはかわかし方が足りないとか、下葉があがっているとか、肥料がきいていないなどと、藍の出来ばえを一々上手に品評しました。すると人々は驚いて、さすがにおとうさんのお仕込で見方がうまいと言ってほめ、それからは容易に取引の相談がまとまりました。こうして父の帰った時には、近在の取引先の藍はことごとく買入がすんでいたので、父は非常に喜びました。

幕末の風雲はいよいよ急を告げて来ました。それまで家業に身を入れていた栄一も、じっとしては居られなくなり、遂に父の許を得て国事に奔走することとなりました。時に年二十四でした。

二十八歳の時、はからずも、パリーで開かれる万国博覧会へおもむく幕府の使節の一行に加ることとなりました。一年半の間、ヨーロッパに滞在して、諸国の政治・経済、制度・文物を研究しているうちに、幕府が亡びたので、帰朝しました。父は我が子の身の上を案じ、大金をふところにして東京まで会いに来ましたが、栄一はたのもしく独立の覚悟を語って、其の金を受けませんでした。

栄一がパリーにいた間に最も深く心を動かしたのは、或銀行家と或将軍とが肩をたたいて談笑している有様でした。栄一が驚いたのも無理はありません。日本ではまだ「士農工商」ととなえて、武士と商人との間には身分の上に非常な隔りがあり、両者が一堂に会して談笑するなどとは思いもよらず、又商人は自ら軽んじて、「うそももとでの中。」などと言って平気でいる者がたくさんいた頃であったからです。栄一は、「将来我が国が盛になるには、どうしても実業の発展をはからなければならない。それがためには、実業道徳を振るい起し、士魂商才で行かなければならない。」と考えて、それから約六十年の間、あらん限りの努力をそれに払いました。

栄一の手にかけた仕事は、銀行・海運・鉄道・紡績・織物・製紙・製鉄・造船・電気等の各方面にわたり、我が実業界の今日の隆盛は、其の功によるものがどれ程多かったかわかりません。其の上朝鮮の開発や国交の親善に尽くすところが多く、又教育及び社会事業にたずさわって生涯力を尽くしたので、功により男爵を授けられ、ついで子爵にのぼされました。更に昭和四年九十歳に達した時には、特に宮中に召されて御陪食の栄を賜わりました。実業家の地位を高めることを一生の願とした栄一にとって、これが彼一人の光栄に止らなかったのは、いうまでもありません。

★ 第九 「公益」
アメリカ合衆国の建国に大功を立てたフランクリンは、西暦千七百六年、北アメリカのボストンに生まれました。幼い時は、家が貧乏な上に兄弟が多いので、学校へは二年間行っただけでした。しかし、読書が好きで、小づかい銭をためては本を買い、少しでもひまがあると、熱心にそれを読みました。

十二歳の時から兄の印刷工場に出て、仕事を習いましたが、子供ながらもよく働いて仕事をおぼえ、間もなく一人前の職工になりました。其の間にも知人からいろいろな本を借受けて、一日の仕事がすむと、それを読むのを楽しみにしていました。

十七歳の時、フィラデルフィヤへ行って、或印刷工場にやとわれ、そこで一生けんめいに働いていましたが、遂に二十三歳の時、独力で印刷業を始めました。それから長く此の地に住むこととなりました。

今ではアメリカ合衆国屈指の大都会であるフィラデルフィヤも、フランクリンが来た頃には、まだ不便で落ちつきのない新開の田舎町に過ぎませんでした。フランクリンは其の頃こんな考えを持っていました、「風の強い日に、ほこりが一人の目にはいったとか、一軒の店先に飛込んだというだけでは、大した事ではない。しかし、人口の多い町で、こうしたことが始終起るとすれば、もはや些細な事とはいわれない。だから、些細な事にも、ふだん心をとめるがよい。およそ人間の幸福というものは、時たま起るすばらしい幸運よりも、かえって日々に受ける些細な利便の方にあるものだ。」と。そこで、公共のためになると思ったことは、何事についても、熱心に自分の意見を発表して、人々の賛成を求め、共に市民の幸福を進め、平和をはかることに骨折りました。

フランクリンは、フィラデルフィヤに図書館をこしらえました。始は知人と相談して、めいめいの蔵書を持寄って、それを取りかえて読むことにしていましたが、後には会員をつのり、資金を出し合って協同の図書館を設け、書物をたくさん買集めて備えつけ、会員に貸出しました。これにならって、方々に同じような図書館が幾つも出来て、人々の知識を進める上に大そう役立ちました。

フランクリンは又新聞紙を発行しました。其の頃の新聞紙の記事には、まちがいや有害な事が多かったが、フランクリンは、正しい有益な記事を自分の新聞紙にのせたので、大そう世間のためになりました。

又、其の頃は一般に消防の方法が不十分でしたから、火事があると、きっと其の度に大きな損害がありました。

そこでフランクリンは、火災を防ぐ方法を調べ、それを印刷して配りました。又有志の者を集めて消防の組合を作り、火事があるとすぐにかけつけて消防につとめることにしました。それにならって消防の組合がだんだん出来て、フィラデルフィヤでは家事の損害が少くなりました。

フランクリンは、又便利なストーブを発明しました。それは従来のものよりもよく部屋があたたまるし、燃料の薪も大そう節約になるので、多くの家庭に喜んで用いられて、間もなく広まって行きました。

其の外、フランクリンは寄付金を集めて此の地に始めて大学を立てたり、有益な日曜暦を工夫して発行したり、街路を改良したり、病院を開いたりして、公益のために力を尽くしました。中でも電気を研究して、雷が電気の作用であることを証明し、避雷針を発明して広く世人を益したことは、有名な話であります。

★ 第十 「協同」
久留米の東、筑後川の流に沿うた地方では、水は近くにありながら、川が低く、流が急なために、田に水を引くのに不便で作物が出来ず、住民は貧しい暮しをしていました。

江戸時代の初、此の地方に栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞という五人の荘屋がありました。五人は、村々の困難をどうかして救う方法はあるまいかと、いろいろ相談の末、遂に筑後川に大きな堰を設け、掘割を造って水を引くより外はないと決しました。それまでには測量にも骨を折り、成功の見込は十分立っていました。しかし、何分これまで誰も企てたことのない大工事であるから、人夫もたくさんにいるし、費用も多くかかるので、藩の許を受けるのが、なかなか容易でないばかりか、長い間には仲間割れを生じないとも限らないと思われました。五人は、そんなことで、もし工事を中止するようなことになったら大変であると思って、

「我々が一たん此の事を思い立った以上は、たといどんなことがあっても生死を共にして、きっとこれを成就しよう。それまでは、五人の者は一心同体であるぞ。」

と堅くちかい合いました。

それから村々の者を集めて此の企を話すと、みんな荘屋を助け協同して働くことを申し合わせました。他の村の荘屋たちも此の企を聞いて仲間に加りたいと申し込む者もありました。五人は、「此の大工事が成就しなかったら、我々五人は一命を捨てる覚悟である。むやみに人を仲間に入れて、迷惑をかけてはならない。」と言ってことわりました。しかし、其の荘屋たちの志の堅いことがだんだんわかって来たので、仲間に入れて、一しょになって藩に願い出ました。

藩では、かような大工事はとても出来まいと思ったので、なかなか許しませんでした。其の上此の計画の水路に当っている村々の荘屋が、「此の堰を設けると、洪水の際に我々の村は危険である。」と言って反対しました。

五人の荘屋は度々藩の役所に出て、計画の確であることを熱心に説明しました。役人は五人に向かい、「もし計画通りに行かなかったら、お前方はどうするつもりか。」とききますと、「其の場合には、私ども五人が責を負って、どんな重い刑罰でも、快くお受け致します。」と申しました。役人は、武士も及ばぬ五人の精神を見届け、とうとう其の願を許しました。

五人の荘屋は、仲間の荘屋たちと一しょに村々の人を指図して、いよいよ工事にとりかかりました。監督に来た藩の役人は、「もし失敗したら、ふびんながら、五人を重く罰するぞ。」と、改めて申し渡しました。村々の人は口々に、「荘屋を罪におとしてはすまない。」と言って、夜昼一生けんめいに働き、女子供までも手伝って木や石を運んだので、さしもの大工事が意外にはかどりました。

いよいよ大きな堰が出来上りました。水を通してみると、果して計画通り、筑後川の水がとうとうと掘割に流れ込みました。其の時の人々の喜はたとえようもありませんでした。

此の成功を見て、外の村々でも水を引きたいと願い出たので、此の堰と掘割をひろげることになりました。すると、始め工事に反対した荘屋が今度は水の分前にあずかりたいと願い出ました。先に願い出た荘屋たちは、「あの人々は、最初、工事に反対したのですから、我々の村に水が来るまではさしひかえさせて下さい。」と申し立てました。が、五人の荘屋は、「此の工事はもともと此の地方のために起したことですから、其の水利は出来るだけ広く受けさせとうございます。どうか皆へ同時にお許し下さい。」と頼みました。役人もそれに同意して、願を聞届けることにしました。

これまで水が少くて作物のとれなかった此の地方が、収穫の多いゆたかな土地になったのは、五人の荘屋を始め、村々が心をあわせ必死になって尽くしたおかげであります。

我等の住む市や町や村は、昔から人々が協同一致して郷土のために力を尽くしたおかげで、今日のように開けて来たのです。協同の精神は、人々が市町村を成し、全体を反映させる基であります。

2006年12月24日更新