★ 第五 「時のきねん日」
六月十日は、時のきねん日です。

この日は、今から千三百年ばかり前に、天智天皇がごじしんでお作りになった水時計で、始めて、みんなに時をお知らせになった日であります。

天智天皇の、お作りになった水時計というのは、水のもれるしかけで、時をはかる時計です。

今では、はしら時計や、おき時計や、うで時計や、たくさんあって、正しい時を知らせてくれますが、昔の人は、時を知るのに、いろいろと工夫したものであります。

しかし、どんなにりっぱな時計があっても、私たちが、時を知るだけでなく、時を正しく守るように、心がけなければ何にもなりません。

学校の授業は、時間通りにおこなわれます。家にかえっても、おさらいとか、運動とか、ごはんとか、みんな時をきめて、それをよく守らなければなりません。そうでないと、人にめいわくをかけるばかりでなく、からだを弱くしたり、病気になったりします。

時を守ることは、やさしいようで、なかなかむずかしいことです。時計を見るたびに、私たちは、正しくときを守るように心がけましょう。

時のきねん日をきねんして、みんなで、きまりよくくらすように心がけましょう。

★ 第十二 「心を一つに」
昔、元という国の大軍が、支那をせめ取った勢で、日本まで押し寄せて来るといううわさが、つたわりました。

「来るならいつでも来い。一人も上陸させないで、みんなたたきつぶしてやろう。もしも来なければ、こっちから海を渡って、元の国へせめこんで行こう。」

というので、日本では、石のとりでをきずいて、いつ敵軍が来ても、打ちはらうことのできる用意をしました。また方々に立札が立って、

「今度、元の国へせめて行くことになった。これにくわわりたい者は、名前と年とを書いて、とどけるように。」

というおふれが出ました。

立札の前は、毎日黒山のような人だかりです。中でも勇ましい武士たちは、この立札を見て、みんな勇み立ち、われもわれもと、あらそって出征するように願い出ました。

こういうおじいさんもありました。お国のために、自分もどうかして出征したいと考えましたが、八十五歳という年よりなので、歩くことさえできません。 すると、六十五になった子どもと、四十になった孫とが、

「しんぱいなさらないように。私たちが、あなたに代って出征して、きっと、りっぱなてがらを立てますから。」

といいました。

おじいさんはたいそう喜んで、

「私は、八十五でざんねんながら、おやくに立ちませんが、子と孫とはぜひ出征させます。」

というとどけを書いて、やくしょにさし出しました。

また、こういうおばあさんもありました。年を取っていたので、子どものせわになっていましたが、このおふれを聞くと、自分のふじゆうなどはかまわないで、

「私は、女で戦争に出られませんが、子ども二人は、どんなにしても出征させます。きっと、夜を日についで、かけつけるでしょう。」

というとどけを出しました。

こうして、その時の日本人は、男も女も、年よりも子どもも、みんな心を一つにあわせ、国のためにつくそうという心にもえ立ちました。

そののち、元の大軍は、日本に押し寄せて来ましたが、さんざんに破られてしまいました。

★ 第十九 「負けじだましい」
板垣退助は、小さい時から負けぎらいでした。

すもうがすきで、仲よしの後藤象二郎と、よくすもうをとって遊びました。

象二郎が強いので、何度とってもかないません。けれども、退助は、投げられても、倒されても、起きあがるとすぐ、

「もう一度やってくれ。」

といって、とびかかって行きました。

退助があまりこんきよいので、しまいには、象二郎の方で、

「わたしが負けた。わたしが負けた。」

といって、退助の負けぎらいなのに感心しました。


後藤新平は、まずしい家に生まれたので、子どものころは、いつも、つぎのあたった着物を着ていました。けれども、新平は、平気で学校へ通いました。 夜は、眠くなるのをふせぐために、てんじょうからなわをつるして、それでからだをしばって、勉強をつづけました。

大山巌が、若い時のことでした。イギリスの軍艦が、鹿児島へせめ寄せて来たことがあります。

海と陸とで、はげしく大砲をうちあいましたが、なかなか勝ち負けがつきません。

これを見た元気な巌は、いきなり着物をぬぎすて、刀をせおって、敵艦めがけて、勢よく泳いで行きました。敵軍は、この勇ましい姿を見て、びっくりしました。

2006年12月16日更新