★ 第五 「宮古島の人々」 |
明治六年、ドイツの商船ロベルトソン号は、日本の近海で、大あらしにあいました。帆柱は吹きおられ、ボートは押し流され、あれくるう大波の中に、三日三晩、ゆられにゆられました。そうして、運わるく、沖縄県の宮古島の沖で、海中の岩に乗り上げてしまいました。 船員たちは、こわれた船に取りついて、一生けんめいに助けをもとめました。 この船をはるかに見た宮古島の見張りの者は、すぐ人々を呼び集めて、助け舟を出しました。しかし、波が高いので、どうしても近づくことができません。日はとっぷりとくれました。しかたなく、その夜は、陸にかがり火をあかあかとたいて、ロベルトソン号の人たちをはげましながら、夜を明かしました。 あくる日は、風もおとろえ、波もいくらか静かになりました。島の人々は、今日こそと勇んで、海へ乗り出しました。船は、木の葉のようにゆられ、たびたび岩にぶつかりそうになりましたが、みんなは力のかぎりこいで、やっとロベルトソン号にたどり着きました。そうして、つかれきっている船員たちを、残らず助けて帰りました。 薬をのませたり、傷の手当をしたりして、島の人々はねんごろにかいほうしました。ことばが通じないので、国旗をいろいろ取り出して見せますと、始めてドイツの人であることがわかりました。 こうして一月あまりたつ間に、ドイツ人は元気になりました。そこで島の人々は、一そうの大きな船をかして、ドイツ人を本国へ帰らせることになりました。出発の日、島の人々は、かねやたいこで、にぎやかに見送りました。何人かの人は、小船に乗って、案内をしながら、はるか沖あいまで送って行きました。 船員たちは、月日を重ねて、ぶじに本国へ帰りました。うれしさのあまり、あう人ごとに、しんせつな日本人のことを話しました。 そのうわさが、いつのまにか、ドイツの皇帝に聞えました。皇帝は、たいそう喜んで、軍艦に記念碑をのせて宮古島へ送りました。その記念碑は、今もこの島に立っていて、人々の美しい心をたたえています。 |
★ 第九 「焼けなかった町」 |
大正十二年九月一日、東京では、朝からむし暑く、ときどきにわか雨が降ったり、また急にはげしい日がさしたりしました。 ちょうど、お昼になろうとする時でした。気味のわるい地鳴りとともに、家もへいも、一度にはげしく震動しました。がらがらと倒れてしまった家も、たくさんありました。 やがて、倒れた家から、火事が起りました。あちらにも、こちらにも、火の手があがって、見る見るうちに、一面の火の海となりました。 水道は、地震のためにこわれて、火を消すこともできません。火は、二日二晩つづいて、東京の市中は、半分ぐらい焼けてしまいました。 ところで、この大火事のまん中にありながら、町内の人たちが、心をあわせてよく火をふせいだおかげで、しまいまで焼けないで残ったところがありました。 この町の人たちは、風にあおられて四方からもえ移って来る火を、あわてずよくおちついて、自分たちの手でふせいだのです。 まず、指図する人のことばにしたがって、人々は二列に並びました。第一列のはしの人が、井戸から水を汲んで、バケツやおけに移すと、人の手から手へとじゅんじゅんに渡して、ポンプのところへ送りました。第二列の人たちは、手早く、からになったバケツやおけを井戸の方へ返して、新しい水を汲みました。 そのうちに、こういう列の組が、いくつもできました。みんな、一生けんめいに水を運びました。また、ほかの一隊は、手分けをして、火の移りやすい店のかんばんを取りはずしたり、家々の窓をしめてまわったりして、火の移らないようにしました。 こうして、夜どおしこんきよく火をふせぎました。年よりも子どもも、男も女も、働ける者は、みんな出て働きました。自分のことだけを考えるような、わがままな人は、一人もいませんでした。 次の日の晩おそくなって、やっと火がもえ移る心配がうすらいで来ました。みんなは、それに力づいて、とうとうしまいまで働きつづけました。 見渡すかぎり焼野の原になった中に、この町だけは、りっぱに残りました。 |
★ 第十一 「山田長政」 |
今から三百二十年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。シャムというのは、今のタイ国のことです。 このころ、日本人は、船に乗って、さかんに南方の島々国々に往来し、たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本町というものができました。シャムの日本町には、五千人ぐらい住んでいたということです。 二十何歳でシャムへ渡った長政は、やがて日本町の頭になりました。勇気にみち、しかも正直で、義気のある人でした。 シャムの国王は、ソンタムといって、たいそう名君でありました。 長政は、日本人の義勇軍をつくり、その隊長になって、この国のために、たびたびてがらを立てました。 国王は、長政を武官に任じ、のちには、最上の武官の位置に進めました。 日本人の中で、武術にすぐれ、勇気のあるもの六百人ばかりが、長政の部下としてついていました。長政は、これら日本の武士と、たくさんのシャムの軍兵をひきいて、いつも、堂々と戦に出かけました。長政が、ひおどしのよろいを着け、りっぱな車に乗り、シャムの音楽を奏しながら、都にがいせんする時などは、見物人で、町という町がいっぱいだったということです。 長政は、こうして、この国のために、しばしば武功をたて、高位高官にのぼりましたが、その間も、日本町のために活動し、日本へ往来する船のせわをし、海外ぼうえきをさかんにすることにつとめました。身分が高くなってからは、ほとんど毎年のように、自分で仕立てた船を日本へ送っていました。 長政がシャムへ渡ってから、二十年ばかりの年月が過ぎました。名君のほまれ高かったソンタム王もなくなり、年若い王子が、相ついで国王になりました。こうしたすきに乗じたのか、そのころ、シャムの属地であったナコンという地方が、よく治まりませんでした。そこで、国王は、あらたに長政をナコン王に任命しました。 そのため、王室では、さかんな式があげられました。まだ十歳であった国王は、特に国王のもちいるのと同じ形のかんむりを長政に授け、金銀やたからものを、山のように積んで与えました。 長政は、いつものように、日本の武士とたくさんのシャムの軍兵をつれて、任地へおもむきました。すると、ナコンは、長政の威風に恐れて、たちまち王命をきくようになりました。 おしいことに、長政は、ナコン王になってから、わずか一年ばかりでなくなりました。 長政は、日本のどこで生まれたか、いつシャムへ行ったかもはっきりしません。それが一度シャムへ渡ると、日本町の頭となり、海外ぼうえきの大立者となったばかりか、かの国の高位高官に任ぜられて、日本の武名を、南方の天地にとどろかしました。外国へ行った日本人で、長政ほど高い地位にのぼり、日本人にために気をはいた人は、ほかにないといってもよいでしょう。 |
★ 第十四 「雅澄の研究」 |
土佐の国に、鹿持雅澄という学者がありました。 まずしい家に生まれたので、勉強しようにも、本をもとめることができません。雅澄は、知合いの人から本をかりて来ては、熱心に読みふけりました。 家の屋根がいたんでも、つくろうことができず、雨の降る日には、もらないところに、机の置場所を移しながら、研究を続けました。どんなに苦しいことがあっても、気を落さず、一生けんめいに勉強して、とうとう万葉集古義百三十七巻を書きあげました。 万葉集というのは、日本の遠い昔の人たちの歌を集めた、大切な本です、雅澄は、万葉集の古いよみ方や意味をよくわかるようにし、日本の道を明らかにしたのであります。 日本の中央からはなれた土地ではあり、ゆききにも不自由な時代のことでしたから、こんなりっぱな研究も、世間に広く知られませんでした。 「自分の研究は、死んでからでなければ、世の中には出ないだろう。」 と、雅澄はそういって、下書を書いたままで、なくなってしまいました。 その後二十年ばかりたって、明治天皇は、雅澄の研究についてお聞きおよびになり、かしこくも、大御心によって、「万葉集古義」が、宮内省からしゅっぱんされることになりました。 こうして、雅澄の心をこめた大研究が、始めて全国に知られ、光をあらわすことになりました。 |
★ 第十五 「乗合船」 |
若い男が、さもとくいそうに、経書のこうしゃくを始めました。 昔の乗合船の中のことです。乗っている人は、二十人もありましょうか。見たところ、お百姓か、大工さんか、商人らしい人ばかり、あとは女が二三人です。若い男は、口にまかせて、しゃべりたてました。 つい、調子にのると、いいかでんなでたらめも出て来ます。しかし、そんなことに気のつくえらそうな人は、一人もいないと、若い男は思いました。 「どうだ、感心いたしたか。」 こうしゃくが終ると、若い男はこういって、みんなを見渡しました。 「いや、ありがたいお話でございました。」 と、いかにも正直者らしいお百姓が、ていねいに頭をさげました。 「なかなかむずかしくて、私どもにはわかりかねますが、先生は、お若いのに、たいそう学問をなさったものでございますな。」 と、これは商家の番頭らしい人がいいました。 「先生」といわれて、若い男は、いっそうとくいの鼻をうごめかしました。 「いや、なに、たいしたことでもないが、これでわしは、ごくおぼえのいい方でな。神童といわれたものだよ。」 「神童と申しますと。」 「神童がわからないのか」−そう思うと、若い男は、いっそう相手をみくびって、ことばづかいが、こうまんになります。 「おまえたちにはわかるまい。神童とは、神の童と書く。童は子どものことだ。」 「へえ、では神様のお子様でございますか。」 「はははは、無学な者には、そうとでも思うほかはあるまい。」 若い男は、大きく笑いました。 しかし、この若い男に、ふと一人の人が気になりだしました。最初は、これも百姓だろうぐらいに思って、気にもとめませんでしたが、どこか品のある中年の男です。 「医者かな。医者なら、少し学問もあるはずだが、あの男は、こうしゃくを聞くでもなし、聞かないでもなし、今みんなが、こうほめているのに、ただ、だまっている。どうせわからないのだろう。してみると、やっぱりいなか者で、少しばかりの金持であろう。」 若い男はそう思って、たってそれ以上、気にもとめませんでした。 いよいよ、船が陸に着くまぎわになりました。みんなは、船をおりる用意をします。 「おたがいに、名をいって別れることにしよう。」 と、あの若い男がいいました。 「私は、番頭の半七と申します。」 「早川村の百姓、義作でございます。」 「大工の八造と申します。」 一同が、順々に名のりました。そうして、あのいなかの金持らしい人の番になりました。 「福岡の貝原久兵衛と申す者。」 いかにもおちついたことばでいいました。 この名が、おの若い男の頭に、がんとひびきました。「貝原久兵衛」とは、世にかくれもない貝原益軒先生であることを知っていたからです。若い男は、そのまま逃げ出すよりほかはありませんでした。ひらりと岸にとびおりるが早いか、一もくさんにかけ出しました。 「ははははは。」 と笑う声が、後から追いかけるような気がします。 「ばか、ばか。ばかだな、おれは。」 若い男は、自分自身をあざけるように、こういいながら、わけもなく走っていました。 |
★ 第十七 「乃木大将の少年時代」 |
乃木大将は、小さい時、からだが弱く、その上、おくびょうでありました。そのころの名を無人といいましたが、寒いといっては泣き、暑いといっては泣き、朝晩よく泣いたので、近所の人は、大将のことを、無人ではない泣人だと、いったということであります。 父は、長府の藩士で、江戸にいましたが、自分の子どもがこう弱虫では困る、どうかして、子どものからだを丈夫にし、気を強くしなければならないと思いました。 そこで、大将が四五歳の時から、父は、うす暗いうちに起して、ゆきかえり一里もある高輪の泉岳寺へ、よくつれて行きました。泉岳寺には、名高い四十七士の墓があります。父は、みちみち義士のことを聞かせて、その墓にお参りしました。 ある年の冬、大将が、思わず「寒い。」といいました。父は、 「よし。寒いなら、暖くなるようにしてやる。」 といって、井戸ばたへつれて行き、着物をぬがして、頭から、つめたい水をあびせかけました。大将は、これからのち一生の間、「寒い。」とも「暑い。」ともいわなかったということであります。 母もまた、えらい人でありました。大将が、何かたべ物のうちに、きらいな物があるとみれば三度三度の食事に、かならずそのきらいな物ばかり出して、すきになれるまで、うちじゅうの者が、それをたべるようになりました。それで、まったく、たべ物にすききらいがないようになりました。 大将が十歳の時、一家は長府へ帰ることになりました。その時、江戸から大阪まで、馬にもかごにも乗らず、父母といっしょに歩いて行きました。そのころ、からだが、もうこれだけ丈夫になっていたのです。 長府の家は、六じょう、三じょうの二間と、せまい土間があるだけの、小さなそまつな家でありました。けれども、刀、やり、なぎなたなど、武士のたましいと呼ばれる物は、いつもきらきら光っていました。 この父母のもとで、この家に育った乃木大将が、一生を忠誠と質素で押し通して、武人の手本と仰がれるようになったのは、まことにいわれのあることであります。 |
★ 第十八 「くるめがすり」 |
でん子は、自分の着ふるした仕事着をつくろっていました。まだ十二歳ですが、ひじょうにりこうで、ほがらかな子どもです。七八歳の時から、はたおりのけいこをして、今では大人に負けないほど、上手になりました。 つくろっている仕事着は、ひざのあたりが、すり切れかかっています。よく見ると、黒い糸が、ところどころ白くさめて、しぜんと、もようになっています。 「まあ、おもしろい。」 と思いながら、でん子の目は、急に生き生きとしました。仕事着の糸をていねいにときほぐして、黒と白との入りまじったぐあいを、熱心に調べ始めました。それから後は、御飯をたべるのも忘れて、一心に工夫していました。四五日たって、でん子は、おり残りの白い糸を、ところどころ堅くくくって、 「これを、このまま染めてください。」 と、こうやに頼みました。 染ができると、くくり糸をといて、縦糸と横糸とに、うまくとり合わせて、こん色の地に、雪かあられの飛び散ったような、美しいもようが現れました。 できあがったものは、しまでもなければ、しぼりでもありません。今までだれも見たことのない、めずらしいおり物でありました。 父母や近所の人たちは、目をみはって、 「これは、かわったものだ。めずらしいものを思いついたね。」 といって、ほめました。でん子は、いろいろながらを、次々に工夫しておりあげました。 でん子の父は、「くるめがすり」と名をつけて、それを世にひろめました。 「めずらしいがらだ。女の子が思いついたのだそうだ。」 「十二の娘が作ったとは、えらいものだ。」 世間では、たいそうなひょうばんです。そのうちに、おり方を習いたいという者が、出て来るようになりました。 |
★ 第十九 「工夫する少年」 |
でん子の家から少しはなれたところに、久重という少年がいました。細工をすることがすきで、毎日二階にとじこもって、からくり人形を作ったり、ばね仕掛けのすずり箱を作ったりして喜んでいました。 久重は、ときどき、でん子の工場へ遊びに来ました。でん子は、今では大人になって、かすりをおるのにいそがしく、大勢の人を使ってはたをおっていましたが、久重は、それをおもしろそうに見ていました。 ある日、この少年が、でん子にいいました。 「ねえ、おばさん。かすりで絵をおることはできないでしょうか。」 「絵とは、もようのことですか。」 「はい。花でも、鳥でも、絵にかいたとおりを、もようにおり出すのです。」 「あなたは、小さいのに、えらいことをいいますね。」 「なぜ。」 「わたしは、ずっと前からそれを考えていました。しかし、絵をおるには、いろいろ仕掛けもいるし、工夫もむずかしい。わたしは、子のとおりいそがしいので、まだそこまで考えるひまがないのですよ。」 「それならひとつ、私が考えてあげましょうか。」 「そう、久重さんは考えることもうまいし、細工も上手だから、どうか頼みますよ。」 久重は、すっかりのみこんだような顔をして、帰って行きました。 どんなに、考えることがうまいといっても、まだ小さな子どものことです。でん子は、頼みはしたものの、あてにはしないでいました。 すると、十日あまりたって、何かいろいろのものを持った久重が、にこにこしながらやって来ました。 「おばさん、できました。」 「何がさ。」 「この前、約束したものですよ。」 「そう。」 といって、持って来たものを調べ、その説明を聞いてみると、でん子もびっくりしないではいられませんでした。 「まあ、久重さん。一人で考えたのですか。」 「ええ、ちょっと骨が折れました。」 「えらいね。ありがとう。ほんとうにありがとう。」 でん子は大喜びで、久重に何べんもお礼をいいました。 それから、二人が力を合わせて工夫したので、りっぱな絵がすりができるようになりました。 |
2006年12月20日更新