★ 第二 「佐久間艇長の遺書」 |
明治四十三年の春、第六潜水艇は、演習のため、山口県新港沖へ出ました。午前十時、潜航を始めると、まもなく艇に故障が起って、海水がはいり込み、艇は、十四名の乗員を閉じ込めたまま、海の底深く沈んで行きました。 艇長海軍大尉佐久間勉は、すぐに部下を命じて、海水のはいるのを防がせ、はいった海水をできるだけ出してしまうようにさせました。しかし、電灯は消えて、艇内は暗く、その上、動力を使うこともできなくなっていたので、ただ手押しポンプをたよりに、必死の働きを続けさせました。 どうしても、艇は浮きあがりません。母艦を見つけて、助けに来るかも知れないという、かすかな望みはありましたが、海上とれんらくも絶えているので、それをあてにすることはできません。そのうちに、わるいガスがたまって、息がしだいに苦しくなって来ました。部下は、一人二人とたおれて行きます。もうこれまでと、覚悟した艇長は、司令塔ののぞき孔からもれて来るかすかな光をたよりに、えんぴつで手ちょうに、ゆいごんを書きつけました。 遺書には、第一に、陛下の艇を沈め、部下を死なせるようになった罪をわび、乗員一同が、よく職分を守ったことをのべ、またこの思いがけないでき事のために、潜水艇の発達をさまたげるようなことがあってはならないと考えて、特に沈んだ原因や、そのようすを、くわしくしるしてあります。 次に、部下の遺族についての願いをのべ、上官・先輩・恩師の名を書きつらねて別れをつげ、最後に「十二時四十分」と、書いてありました。 艇が引きあげられた時には、艇長以下十四名の乗員が最後まで職分を守って、できるかぎりの力をつくしたようすが、ありありと残っていました。遺書は、この時、艇長の上着から取り出されたのでした。 |
★ 第三 「近江聖人」 |
中江藤樹は、近江の小川村に生まれました。小さな時から心だてが正しく、近所の子どもと遊んでも、わるいおこないを見習うようなことは、ありませんでした。 藤樹が九歳の時、米子藩主につかえていた祖父のところに引きとられました。祖父のいいつけで、藤樹は、字を習いました。よく勉強したので、早く上手になり、まもなく祖父に代って、手紙を書くことさえできるようになりました。 十歳の時、米子藩主が、伊予の大洲へ移ることになったので、藤樹も、祖父につれられて、大洲に行きました。 十一歳の時、ある日、経書を読んで、人はだれでも身をおさめるのがもとである、と書いてあるのを見て、勉強さえすれば、聖人といわれるほどの徳の高い人にでもなれるとさとって、それからはいっそう身をおさめることにつとめました。 十四五歳のころ、祖父母は、相ついで死にましたから、藤樹は、祖父の家をついで大洲藩主につかえました。十八歳の時に、故郷の父が死んで、母一人になったので、その後役をやめて、小川村へ帰ることにしました。 小川村へ帰ってのち、くらしはまずしくても、年よった母につかえて、よく孝行をつくし、また熱心に学問にはげんだので、たいそう徳の高い学者となりました。 藤樹をしたって、遠いところから教えを受けに来る者が、だんだん多くなり、小川村を始め、近くの村々の人は、みんなその徳に感化されました。 世間の人は、近江聖人と呼んで、藤樹を心からうやまいました。 四十一歳の時、藤樹はなくなりました。なくなってからも、藤樹の感化は、みんなにしみこんで、村の若い者は夜集って手習をし、たがいにおこないをつつしんだので、小川村は、たいそうよい風俗になりました。それから長い年月がたっていますが、今でも村の人たちは、毎年祭をして、藤樹の徳をしたっております。 ある年、一人の武士が、小川村の近くを通るついでに、藤樹の墓をたずねようと思って、畠を耕している農夫に道を聞きました。すると、農夫は、 「旅のお方には、わかりにくいでしょうから、ご案内いたします。」 といって、先へ立って行きました。途中で、自分の家にたち寄り、着物を着かえ、羽織まで着て来ました。その武士は、心の中で、自分をうやまって、こんなにていねいにするのであろう、と思っていました。 藤樹の墓についた時、農夫は、垣の戸をあけて、武士を正面に案内し、自分は戸の外にひざまずいて、うやうやしく拝みました。このようすを見て、武士はおどろき、さきに農夫が着物を着かえて来たのは、まったく藤樹をうやまうためであったと気がついて、農夫に、 「藤樹先生の家来ででもあったのか。」 と聞きますと、農夫は、 「いえ、そうではありませんが、この村には、一人として先生の御恩を受けない者はございません。私の父母も、『自分たちが人間の道をわきまえ知ったのは、まったく先生のおかげであるから、決して先生の御恩を忘れてはならない。』と、つねづね私に申し聞かせておりました。」 と答えました。 その武士は、初め、ただ藤樹の墓を見て行こうというくらいにしか考えていなかったのでしたが、農夫の話を聞いて、深く心にはじ、ていねいに墓を拝んで行きました。 |
★ 第六 「通潤橋」 |
熊本の町から東南十数里、緑川の流れにそうて、白糸村というところがあります。あたり一面高地になっていて、緑川の水は、この村よりずっと低いところを流れています。また、緑川に注ぐ二つの支流が、この村のまわりの深いがけ下を流れています。 白糸村は、このように川にとり囲まれながら、しかも、川から水が引けないところです。それで、昔は、水田は開けず、畠の作物はできず、ところによっては飲水にも困るくらいでした。村人たちは、よその村々の田が、みどりの波をうつのを眺めるにつけ、ゆたかにみのって、金色の波がうつのを見るにつけ、どんなにか、うらやましく思ったでしょう。 今からおよそ百年ほど前、この地方の、総荘屋に布田保之助という人がありました。保之助は、村々のために道路を開き、橋をかけて交通を便にし、堰をもうけて水利をはかり、大いに力をつくしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人たちといっしょに、水のとぼしいことを、ただなげくばかりでした。 いろいろと考えたあげくに、保之助は、深い谷をへだてた向こうの村が、白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうかして引いてみよう、と思いつきました。しかし、小さなかけいの水ならともかくとして、田をうるおすほどのたくさんの水を引くのは、なまやさしいことではありません。保之助は、まず木で水道をつくってみました。ところが、水道は、はげしい水の力で、一たまりもなくこわされ、かたい木材が深い谷底へばらばらになって落ちてしまいました。 けれども、一度や二度のしくじりで、こころざしのくじけるような保之助ではありません。今度は、意志で水道をつくろうと思って、いろいろと実験してみました。水道にする石の大きさや、水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や、吹きあげ方などをくわしく調べました。とりわけ、石のつぎ目から、一滴も水をもらさないようにする工夫には、いちばん苦心しました。そうして、やっと、これならばというみこみがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。 藩の方から許しがあったので、一年八箇月をついやして、大きなめがね橋をかけました。高さが十一間余り、幅が三間半、全長四十間。そうして、この橋の上には、三すじの石の水道がつくってありました。 始めて水を通すという日のことです。保之助は、礼服をつけ、短刀をふところにして、その式に出かけました。万が一にも、この工事がしくじりに終ったら、申しわけのため、その場を去らず、腹かき切る覚悟だったのです。工事を見とどけるために来た藩の役人も、集った村人たちも、他村からの見物人も、保之助の真剣なようすを見て、思わずえりを正しました。 足場が取り払われました。しかし、石橋は、びくともしません。やがて水門が開かれました。水は、勢こんで長い石の水道を流れて来ましたが、石橋はその水勢にたえて、相変らず谷の上に高くどっしりとかかっていました。望みどおりに、水がこちらの村へ流れ込んだのです。 「わあ。」という喜びの声があがりました。保之助は、長い間、苦心に苦心を重ねた難工事ができあがったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして、水門をほとばしり出る水を手に汲んで、おしいただいて飲みました。 まもなく、この村にも、水田の開ける時が来て、百町歩ほどにもなりました。しだいに村はゆたかになり、住む人はふえて、藩も大いに収益を増すようになりました。 橋の名は通潤橋と名づけられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命をささえる柱となっています。 |
★ 第七 「礼儀」 |
世の中は、礼儀が大切であります。私たちは、つつしみの心を失わず、礼儀を正しくしなければなりません。礼儀が正しくないと、人にいやな気持を起させ、自分は品位をおとすことになります。 細井平洲という人は、若い時から、礼儀正しくすることにつとめました。年を取るにつれて、人がらはいよいよ高くなり、一度平洲にあった者は、時がたっても、その上品なようすが目に残って忘れられなかった、という話が伝わっています。 わが国では、昔から礼儀作法が重んじられ、外国の人から、日本は礼儀正しい国だ、といわれて来ました。時勢がうつり、人がかわっても、礼儀作法の大切なことには、かわりはありません。私たちは、いっそう注意して、大国民としての品位をおとさないようにつとめましょう。 人の前に出る時は、髪や手足を清潔にし、着物の着方などにも気をつけて、身なりをととのえなければ失礼になります。 食事をする時は、みんなで楽しくたべるように心がけ、食器の類を荒々しく取り扱ったり、さわがしく物音をたてたりしないようにしましょう。また、室の出はいりには、よくおちついて、人のさまたげにならないようにし、戸障子のあけたてなども、静かにしましょう。 汽車・汽船・電車・自動車などに乗った時には、人にめいわくをかけないようにするのはもとより、行儀のわるいふるまいをしたり、いやしいことばづかいをしてはなりません。特に、集会には、この心がけが大切であります。大勢の中で、人の顔かたちや身なりなどをあざ笑ったり、とやかくいったりするのは、つつしみのないことといわなければなりません。 約束を守るのも、また礼儀であります。約束は、かるがるしくしてはなりませんが、一度約束したならば、かならずそれを守らなければなりません。約束を果たさないのは、うそをいったことになって、相手にめいわくをかけます。 私たちは、ふだんのおこないに気をつけて、礼儀正しくし、世界の人々の手本となるように心がけなければなりません。 |
★ 第十 「勝安芳」 |
勝安芳という人がありました。まだ若い時、オランダの学問をおさめ、外国の兵術を調べようと思いたちましたが、そのころ、外国の書物は少くて、なかなか手に入れることができません。その上、いちばんだいじな辞書などは、たとえ見つかっても、ねだんがずいぶん高く、一さつ六十両もするほどでした。 まずしいくらしをしていた安芳には、買いたくても、そんな大金を出すことができません。けれども、外国の書物を習いたての者にとって、辞書がないのは、ちょうど船に帆がないのと同じことです。安芳は、どうしても辞書がほしくてたまりませんでした。 とうとう思いあまって、毎晩おそくまで親類や知人のところをかけまわって、必要な金をととのえようとしました。すると、 「外国かぶれの者には、金をかすことなんかできない。」 といって、みんなたいへんなけんまくです。 そのころの人たちは、外国の学問はけがらわしいもの、とばかり思いこんでいたのですから、無理はありません。いくらとききかせても、だめです。 安芳は金をかりることを、さっぱりとあきらめてしまいました。そうして、 「よし、辞書が買えなければ、辞書をかりて、うつしてやろう。」 と、おおしい気持をふるい起しました。 さっそく、知合いの医者から、オランダの辞書をかりて来て、寝るまも惜しんで、うつし始めました。まる一年ぐらいも、かかりました。 ちょうど、安芳のおとうさんは、病気をしていて、動くことができません。その看病をしながら、一念こめて、安芳は写本の仕事を続けたのでした。冬が来ても、寒さをしのぐたきぎがありません。びんぼうが安芳をほろぼすか、安芳がびんぼうをうち負かすか。一生けんめいになって戦い続けました。 うつし終った辞書の終りに、安芳はこう書き残しています。 「秋の初めに書き始めて、次の年の秋なかばまでかかった。このころ、まずしさは骨のそこまでしみこんで、冬の夜にも、寝るふとんがなく、また夏には、かやもなかった。来る夜も来る夜も、ただ机によりかかって眠った。」 実に、、骨をけずり、血をしぼるような思いで、書きうつしたのでした。 安芳は、写本の辞書を二冊も作って、一部は自分が使い、別の一部は人に売って、辞書をかりたお礼をしました。 意志の強い奮闘努力の人でなければ、まねのできないことであります。 |
★ 第十一 「咸臨丸」 |
外国の兵術を調べていた勝安芳は、幕府に召し出され、長崎へ行って、オランダ人から新しい航海術をまなぶことになりました。 航海術を一通りおさめて、まもなく安芳は、今度は日本人だけで太平洋を渡り、アメリカ大陸まで行ってみようと考えました。まことに愉快なもくろみではありましたが、案内する者もなく、はて知れぬ大海へ浮かぼうとするのですから、まったく命がけのことでした。 やがて日本の海軍を背負って立つ大人物となる安芳も、いよいよ日本の岸を離れようとする時は、 「死ぬか、生きるかだ。」 と、しばらくの間は、悲壮な気持で甲板に立ち続けました。 万延元年という年、正月十三日のことでありました。安芳の乗り込んだ船を咸臨丸といいます。 冬の海は荒れて、大波は絶えず甲板を洗います。しけになって、船体が木の葉のようにゆられ、ねじ折られそうになったことも、たびたびありました。あられが降り、ひょうがたたきつける中を心ぼそい航海を続けなければなりませんでした。安芳の日記には、三十七日の航海中、晴れた日はわずかに数日だった、と書き残しています。 何度も、不安な気持が船員たちの胸をしめつけました。けれども、 「私たちは日本人だ。マストの上にひるがえる、あの旗を見ろ。大日本の名誉を忘れてはならない。」 と、絶えずはげまし続ける安芳のことばに、船員たちも白地に赤の日の丸の旗を仰いでは、日本人としてのおおしい心をわきたたせました。 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ということがある。私たちは、身を捨てる覚悟でなければならない。それでこそ、日本のほまれをあげることができるのだ。」 と、みんな心の中にちかったのでした。 こうして、咸臨丸は白波をけたて、東へ東へと進みました。黒潮も、無事に乗りきりました。とうとう二月二十五日に咸臨丸は、その姿をサンフランシスコの沖合に現しました。 今こそ金門湾頭に、わが日本の旗をひるがえす時が来たのです。みんなは、マストの上の日の丸の旗に両手を合わせ、神様に深く感謝をいたしました。 この時すでに、アメリカ人が「日本をあなどることはできない。」という感じを強くしたことは、いうまでもありません。 ところが、安芳はサンフランシスコのりっぱな町を眺めながら、持ち前の負けじ魂を出して、 「十年、二十年後の日本を見ろ。」 と、叫んでいました。強い愛国心が、大波のように胸にこみあげて、 「日本人が、世界を大またで歩く日の早く来るように。」 と、いろいろ思いをめぐらしました。 まもなく、安芳は江戸城明渡しの大立物となって、薩藩の西郷隆盛と心をあわせ、幕末の日本に挙国一致の実をあげさせました。太っぱらで、しかも、つねにこまかく気をくばった安芳は、かずかずのてがらをたてて、わが国の歴史に不朽の名をとどめたのでした。 |
★ 第十二 「間宮林蔵」 |
間宮林蔵は、文化六年の五月十二日、樺太北端のナニオーまで、やっとのことで、たどり着きました。 民家が五六戸ほどしかない、さびしい部落です。少し南のノテトを四月にたって、ここまで来る間に調べたところでは、樺太とダッタンの陸地とが、両方からせまりあっていました。 海の水は、みんな南へ南へと流れます。小さなサンタン船を使って乗り出しても、かくべつ、骨がおれるというほどではありません。潮流はいたって、ゆるやかだからでした。 ところが、ナニオーから先は、だんだんに海がひろがっています。海水は、北の方へと流れます。しかも、山のような大波が、はげしくかみ合って、船をここから進めることは、もうできなくなってしまいました。 林蔵は、ちょうど地の底からでも、わき起って来るような、ごうごうという、ものすごい海鳴りを聞きながら、この大自然の姿をじっと見つめて、動こうとしませんでした。 「そうだ。やっぱり海峡だ。」 と、林蔵は顔をかがやかしながら思わず心の中で叫びました。 文化五年春、松田伝十郎といっしょに渡ってから、第二回めの樺太探検です。しかも、今度は一人でした。 いま始めて、林蔵は、まのあたりに黒龍江の濁流がせまい海峡に流れて来て、ここから北と南へ潮流を二分させている光景を見たのでした。その上、海峡を越えて海がしだいに広く開けるようすも、はっきりとつきとめることができたのです。 二年めをかぞえる、長い苦しい旅のつかれも、うえをしのんだことも、みんな、このひとときの感激によって、消え失せました。 けれども、林蔵は、ここで気をゆるめるような男ではありません。 「ロシヤの国境まで、奥地を探検するのが、北辺の風雲急なこの時勢に、自分に与えられた使命ではないか。」 そう思うと、すぐにでも境界を見定めるため、出発したいという気持に、かりたてられました。 もう船も進まない先へ行くのですから、手落ちなく準備をしなければなりません。いろいろの事情で、林蔵はしばらくの間、土人たちといっしょに暮すことにきめました。魚もとれば、狩もしました。木も切れば、網もすきました。こうして、土人たちと暮して話をしている間に、樺太が離れ島であって、ほかの国と境界を隣りあわせにしている土地ではないということが、いよいよたしかになりました。 土人たちは、海を越えてダッタンへ渡れば、ロシヤの国境がわかるといいます。 「よし、それではダッタンへ行こう。」 と、林蔵はかたく決心しました。 土地の酋長コーニが、品物交換のため大陸へ渡ろうとしていました。このよい機会を逃しては、二度と大陸へ行くことはできないと思ったので、いくたびとなく、林蔵はコーニに、 「どんなことでも、がまんしてみせる。ぜひ、つれて行ってもらいたい。」 と、熱心に頼みこみました。そうして、やっとのこと、林蔵が船をこぐという約束で、遠くダッタンまで出かけました。 途中の苦しみは、これまでにも増して、たとえようのないものでした。しかし、林蔵は生死をこえて、ただ国を思うのまごころから、外敵におかされようとしていた北辺の守りのために、身を投げ出したのでした。 林蔵の願いは、みごとに達しられました。 |
★ 第十三 「瓜生岩子」 |
東京浅草の観音におまいりすると、本堂に向かって左手の庭に、やさしい笑いをたたえたおばあさんの銅像があります。これこそ貧しい人や、みなし子の母としたわれた瓜生岩子の銅像です。 岩子は、福島県の喜多方に生まれました。早く父に死に別れ、続いて火事にあい、小さい時からいろいろとくろうをしました。結婚してから、若松で呉服屋を始め、子どもが生まれ、店もおいおいはんじょうして、やっとくらしがらくになったころ、夫が重い病にかかって、七年の長わずらいののちに死にました。岩子は、それから店を人にゆずって、喜多方へひっ越しました。 たび重なる不幸にあっても、岩子はそのため世をはかなむようなことはなく、かえって同じような不幸な人に対する思いやりの心を深くしました。喜多方へひっ越してまもなく、戊辰の役が起り、若松は戦争のちまたとなりました。岩子は、 「どんな時にも、女には女の仕事がある。」 といって、銃火の中をくぐって、負傷者の介抱や、たき出しなどに、かいがいしく立ち働きました。 この時、会津藩士の家族は、多く喜多方の方面へのがれて来ましたが、とまる家もなく、うえと寒さに苦しんでいました。岩子は、見るに見かねて、わが家につれ帰り、また近所の家や付近の農家に頼んで、とまらせることにしました。そうして、これらの人に、着物やたべものなどをととのえてやり、病気の者には、みずから薬をせんじて与え、老人をなぐさめ、おさない者をいたわり、働ける者のためには、仕事をさがしてやるなど、わが身を忘れてせわをしました。 とりわけ、岩子があわれに思ったのは、父兄を失ってたよる人もない子どもたちのことでした。定めて名ある武士の子であろうに、武士らしいしつけも受けず、毎日遊び暮しているのを見て、岩子はその行末を案じました。そこで、よい先生を頼み、ささやかな学校を開き、古机・古本・古すずりなどをもらい受けて、勉強ができるだけの用意をし、九歳から十三歳までの子どもを集めて、読み書きそろばんをまなばせました。この時、集った子どもは五十人ばかりありましたが、岩子はその親ともなって、しんせつにみちびきました。 明治五年に始めて小学校ができたので、岩子の学校は閉じられることとなりました。岩子は、これから世の貧しい人を助け、みなし子を育てることに全力をつくしました。そのおこないが世間にひろまり、おかみから何度もほうびをいただきました。ついで養育院が始めて東京にできた時には、その最初の幼童世話係長にえらばれました。岩子は、功により藍綬褒章を授けられ、昭憲皇太后から、ありがたい御下賜品までいただきました。 |
2006年12月24日更新