★ 第二 「私たちの家」
私たちの家では、父は一家の長として仕事にはげみ、母は一家の主婦として父を助けて家事にあたり、ともに一家の繁栄をはかっています。

父母の前は祖父母、祖父母の前は曾祖父母と、私たちの家は、先祖の人々が代々守り続けてきたものであります。先祖の人々が、家の繁栄をはかった心持は、父母と少しも変りがありません。

私たちは、このように深い先祖の恩を受けて生活しているものです。したがってこの恩を感謝して、先祖をあがめ尊び、家の繁栄をはかることは、自然の人情であり、またわが国古来の美風であります。

昔、大伴家持は、

剣太刀いよよとぐべしいにしへゆさやけく負ひて来にしその名ぞ

といって、一族をさとしました。

また菅原道真の母は、道真が十五歳になって元服した時に、名誉ある父祖の業をついで、いっそう家をさかんにするようにと、

久方の月の桂も折るばかり家の風をも吹かせてしがな

とよみました。

先祖に対しては、祭祀を厚くすることが大切であります。そうしてよき先祖の志をつぎ、先祖ののこした美風をあらわすようにつとめなければなりません。

一家の中で、一人でも多くよい人が出て、業務にはげみ、君国のために力をつくせば、一家の繁栄を増すばかりでなく、また一門の名誉を高めることになります。もしもただ一人でも不心得の者があって、わるいことをしたり、つとめを怠ったりするものがあれば、うち中の人に難儀をかけて、親類までが肩身のせまい思いをしなければなりません。

このように一人のおこないのよしわるしは、ただちに一家一門の幸不幸となり、先祖の人の名にもかかわるのであります。それゆえ、一家の人々は、みんな心をあわせて家の名誉と繁栄のために力をつくし、先祖に対してはよい子孫となり、子孫に対しては、またりっぱな先祖となるように、絶えず心がけなければなりません。

★ 第四 「父と子」
幕末のこと。杉百合之助の家では、春秋の二回、日をきめて、藩公毛利氏の先祖をまつってあるやしろと、氏神様におまいりするならわしであった。

そうでなくても、百合之助は毎朝家のだれよりも早く起き、清水を汲んで先祖のみたまに供え、西の方藩公のおられる萩城を拝し、東に向かって、うやうやしく皇室のみさかえを祈ることにしていた。

ある年のその日の朝、あたりはまだ暗くしずまりかえっていた。

「梅太郎も、大次郎も、目がさめたか。」

声をかけると、どちらが先ともなしに、兄弟二人がすぐに答えた。

「はい、とっくに起きております。」

「では、庭におりなさい。」

春まだ浅く、肌にせまるあかつきのやみのつめたさ。足もとにくずれるしも柱の色は見えぬが、地は堅くこおっている。

百合之助は、二人の男の子をつれて井戸ばたへ出た。

「いつもいうように、からだを洗い、心を清めるのだ。まず、わたしが先にやる。」

くるくると着物を脱ぐと、つるべを取り、水を汲みあげて、つめたさもいとわず、ざぶりと頭から浴びた。

「すがすがしい気持だ。今度は、梅太郎、なさい。」

「はい。」

まだ明けやらぬうす明かりの中に、汲みあげられる水は、氷のように白く光る。しかし、梅太郎は元気よくかぶった。

「さあ、次は大次郎。」

「はい。」

満々と水を汲み入れたつるべは、幼い大次郎の腕には、かなりに重かったが、それでも大次郎は、ゆっくりとあわてずに、ざぶりざぶりと上手に浴びた。

家の中では、あかのつかない、さっぱりした着物を取りそろえて、母が静かに待っていた。

「では、出かけるぞ。途中で人におうても、ことばをかわしてはならない。」

父百合之助の声は、いつもとは違って、きびしさをふくんでいた。

この宮まいりの朝だけは、心をけがすことのないよう、家の外へ足をふみ出したら、決して人と口をきかぬと父と子は、かねてかたく約束してあったのである。

この日、無事におまいりをすまして、家に帰ってからのことであった。

「梅太郎は、何を祈った。」

と、父がたずねた。

「はい。皇室のみさかえを祈り、殿様の御無事を願いました。」

「うむ。なるほど。では、大次郎は。」

「私も、第一に皇室のみさかえを祈りました。それから、自分がほんとうの日本国民になることをお誓いいたしました。」

「ほんとうの日本国民とは、どういうことか。」

「臣民としての道を守り、命をささげて陛下の御ためにつくすのが、ほんとうの日本国民だと、玉木のおじ様が教えてくださいました。」

「うむ。それを神様にお誓いしたのか。」

百合之助は、わが子ながら大次郎は、あっぱれな魂の持主だと心ひそかに感じいった。

大次郎とは、だれあろう。のちに寅次郎と名を改め、おじ吉田大助の家をついで、吉田松陰先生とあがめられるようになったその人である。

★ 第五 「師につかえる」
弘化三年、松陰が十七歳になったときのことである。

きのうは、一日中ひどい風が吹いて、浜辺から海鳴りがとどろいて来た。今日もまだそのなごりで、庭木の枝のゆれる音が、耳についてならない。

このころ、松陰は林真人という先生の家に住みこんで、その教えを受けていた。松陰は、十一歳、十三歳、十五歳と三回ほど、藩主毛利敬親の前へ出て、兵学の講義をした。

「よく、できる。」

といって、たいそうほめられたが、なかでも十五歳のおりには、ほうびとして、「七書直解」という書物をいただいた。それでもなお兵学をいよいよ深くきわめるため、努力を続けたのである。

松陰の部屋は、二階になっている。寝る前、窓べから見た大空には、雲はすっかり風に吹き払われて、あちこちにさえた色で光る星が仰がれた。

それから、どれくらいの時間がたったであろうか。松陰は、夢の中で、ただごとではないにおいを感じて、はっと目がさめた。がばとはね起きると、夢ではない。部屋いっぱいに、もうもうたる煙が、うずを巻いている。そのとたん、階下からも、けたたましい叫びがつきあがって来た。

「火事だ。」

「火事だ。」

松陰は、とっさに身支度をすまして、どとっと階段をかけおりて行った。まだやまない強い風にあおられて、火のまわりは早かった。ほのおの勢はものすごく、もう手のつけようもない。

「さわぐな。」

かけおりて来るやいなや、松陰はみんなを大声でしかりつけた。家の人々は、ただうろうろと逃げまどい、わあわあ泣きわめくばかりであった。

「女と子どもは、そのまま外へ行け。男はだいじなものだけ、運び出せ。」

煙は真黒になって、もくもくと吹き出し始めた。女、子どもは、泣きながら戸外へとび出して行く。その後を追いかけるようにして、本箱や、たんすを引っかついだ男たちが続いた。

松陰は一生けんめいになって、本という本を手あたりしだいにつかみ出し、家の外へほうり出した。

めらめらと、あかいほのおが身近にせまって来る。松陰がとび出すと、まもなく、ばりばり、めりめりと、はりや柱が響きをあげて、くずれ落ちた。ほのおの色は夜空をこがし、恐れおののく人々の顔を、ものすごく照らし出した。

やがて、松陰の大奮闘によって、書物の大部分と、家財道具のいくらかを取り出しただけで、林真人の家は後かたもなくなって、一山の灰になってしまったのである。

休むひまもなく、後かたづけに元気いっぱい働きながら、松陰は、先生にあいさつをした。

「死人もなく、けが人もなかったのは、なによりでした。」

「いや、それだけではない。きみの働きで、だいじな書物が、ほとんど全部助ったのは、大きなさいわいだった。それに引きかえ、きみが着のみ着のままになって、書物も着物も、みんな失ったのは、まことにお気のどくだ。ありがたいやら、申しわけないやら、なんともいうことばがない。」

「私の持物など、少しも惜しいことはありません。」

「いや、ことに相すまないのは、きみが殿様からいただいたあの七書直解を灰にしてしまったことだ。まことに取りかえしのつかないことをしたな。」

「あ、七書直解ですか。惜しいことは惜しかったですが、もうあれは十分はらに入れたつもりですし、また殿様には、私から重々おわびいたしますから、どうぞ御心配なく。」

松陰はかえって師と仰ぐ林先生を慰めるのであった。ほんとうに松陰は自分のものを、何も惜しいとは思っていなかった。むしろ、力が足りないため、もっとたくさん、いろいろのお手伝いができなかったことを、はずかしいとさえ考えていた。

師につかえるのに、私心があってはならない。しかもどんな場合にも、自分をみがくのが、学問するものの態度である。松陰のおこないは、つねに自分のまなぶところと、一つになっていたのだ。

★ 第六 「松下村塾」
冬ながら、もう十日余りも風のないおだやかな天気がつづく。

ここ松本村新道の杉家のやしきうちでは、のみやつちの音が、いそがしそうに響いている。宅地の中にあった小屋を手入れして、それを八じょう敷きの小さな家を建てなおそうというのである。

松陰が二十八歳のとし。安政四年十一月のことであった。

松陰は集って来る村の子弟たちを教えみちびくため、おじの久保五郎左衛門の力ぞえで、その学舎をつくろうと思いたったのである。これからのびようとする青少年たちに、何かしら、手伝ってやりたかったのだ。

おだやかな冬の日ざしを背に浴びながら、松陰はできあがって行く家の前庭に、梅の木を植えていた。ふと足もとにさす影法師に気がついて顔をあげると、高杉晋作がにこにこしながら近づいて来た。

高杉は今年の秋、塾にはいったばかりの青年である。

「先生。いよいよ、できあがりますね。」

「おかげでな。」

「しかし戸障子がありませんね。」

「ない。たたみもないぞ。しかし、ござを敷けばよい。」

手入れをして、やっと雨露のもらないようにするという塾を前にして、松陰と晋作とは、ほほえみながら、向かい合っていた。

けれども、まもなく塾が、その八じょうきりの屋根の下で、開かれるようになると、だれとなく少しずつの金を出し合って、障子を買って来たり、また古だたみを持って来たりして、粗末ながら、塾のかたちができあがったのである。

本をたくさん読むことが、そのままよいのではない。よい本をえらんで、その一さつ一さつが、自分の考え方をしっかりさせる読み方でなければならない。松陰はいつでもよい本をたくさん読んでは、全部それを自分の身につけて、心をゆたかにしようとつとめた。

門下の人々がふえて、八じょうしかない塾は、だんだんせまくなって来た。安政五年の三月ごろ、

「どうだ。ひとつ、ぼくらの手で建て増しをしようではないか。」

という話が、だれとはなしに持ちあがって、松陰先生の許しが出ると、すぐその明くる日から、塾生たちは、みんなで木を運び、板を集めた。工事が、にぎやかに始ったのである。

血気ざかりの青少年ばかり。建て増し工事は、またたくうちにはかどった。松陰ももちろん、先生みずから塾生といっしょになって、柱を立てたり、壁土をこねたりした。

この塾で、松陰が教えた学問はいろいろある。もっとも松陰の力こぶを入れたのは、皇室を尊び、至誠を以て貫ぬき、実行力を持つ、という精神を養うことであった。江戸数百年の間ねむっていた当時の人々をさとらせて、皇室を尊ぶようにさせなければならないというのである。そのためには、一人でも多く大義に目ざめた人物が必要である。そうして、一人よりも百人、百人よりも千人、万人。日本国中の人々をゆりさまさなければならない。

松陰は、ひたすらこの大道を至誠を以て実行しようとしたのである。

わずかに十八じょうの古い家の塾であった。しかし、このせまい塾に集った青少年の中から、久坂玄瑞、高杉晋作を始めとして、明治維新のおり、身を以て国事につくした大人物がたくさん出た。それに、村にのこって、おのれをおさめ、家を守った弟子たちにも、一人としてまちがったことをしたものはなかった。みんな松陰にみちびかれて、書物も読めば、剣道もやる。あるいは養蚕をしたり、米つきをしたりして、魂をねりあげたのである。

松陰の塾を松下村塾と呼んだ。ここでは、武士の子も、農家の子も、へだてはなかった。また松陰は、決して先生だという高慢な態度をとらなかった。先生と塾生の膝と膝とが、くっついている。礼儀は正しいが、へだてはなかった。

塾は、だんだんと大きくなって行った。そうして、み国の柱となる忠義の士が、たくさんに生まれたのである。

★ 第七 「野村望東尼」
元治元年十一月、福岡平尾の山荘をおとずれた二人の武士があった。一人は、筑前藩の勤皇家として知られた月形洗蔵。いま一人は、このあたりに見かけない武士であるが、その丈の高さと、男らしいふるまいとが、ひどく人目をひく。

庭で落葉をかき集めていた老尼が、目ざとくこれを見つけて、

「月形様、ようこそおいでくださいました。」

といいながら、柴折戸まで出迎えた。洗蔵は、

「今日は、めずらしいお客を案内いたしました。長州の高杉氏です。」

と紹介した。そこで、高杉は、ていねいにあいさつをした。

老尼は、先に立って二人を座敷へ案内する。座についた洗蔵は、

「お願いがあって、まかり出ました。と申すのは、この高杉晋作殿が、藩中佐幕派の圧迫を受け、当地へ身を寄せられました。ついては、とかく城下は人目にふれやすいので、せひともこちらのお力にすがりたいと考えて参ったのであります。」

と、老尼に頼んだ。

山荘の主野村望東尼は、若い時から、夫新三郎の感化を受けて、勤皇の志に厚く、夫の死後髪をおろして尼となってからは、特に志士たちに力ぞえをするため、必死になって働いたのである。望東尼を慈母のようにしたう者は多く、山荘はいつも諸国の志士たちの集り場所にえらばれた。晋作が、ここに案内されたのも、実はそのためであった。

ふと目を移すと庭先の木立の中に、小さな祠がある。建武の忠臣、楠木正成をまつっているという望東尼の説明を聞かされて、晋作は奥ゆかしいものを感ぜずにはおられなかった。

ここに手厚く、もてなされている間、朝夕顔を合わせ、ことばをかわすにつけても、男もおよばない女丈夫の魂にふれては、いよいよ心服するばかりであった。

望東尼は、晋作から時勢について教えを受け、深く事態を知り、いっそう勤皇の志をかためたのである。小倉まで来ていた薩藩の西郷隆盛を晋作とあわせるようにしたのも望東尼であった。この時、晋作におくった歌に、

くれなゐの大和錦もいろいろの糸まじへてぞあやはおりける

もののふの大和心をより合はせただ一すぢの大綱にせよ

とある。山荘での会見で、二英雄の意気があって、勤皇討幕の実をあげる薩長連合の力強い大綱が用意されたのである。

ある日のこと、一通の手紙を受け取った晋作は、望東尼の前に坐して、急いで帰国する旨をつげた。望東尼は、

「今こそ、あなたのお働きになる時です。こんなこともあろうかと存じて、着物をととのえておきました。」

と、あらかじめ仕立てておいた着物に、羽織、じゅばんまで取りそろえて、さし出した。晋作が感動したのは、いうまでもない。

明治の大御代の開ける少し前、こうしたやさしい女の力が、どれだけ新しい日本をつくりあげるのに役だったか、はかり知れないものがある。

男まさりの望東尼は、決して女らしさを忘れる人ではなかった。玄界灘の一孤島姫島に捕らわれの身となった時も、女の身だしなみは、身を清くたもち、かたちをくずさないものだといって、着物などもさっぱりしたものをつけ、きちんとすわって、筆をとったり、紙細工に工夫をこらしたりした。

志士の母ともいわれる野村望東尼は、勤皇のためにたおれた人たちをとむらうの念から、自分の小指を切って、その血で経文をうつしたこともある。また、慶応三年九月、討幕のため薩長連合軍が進発するのを見送ったのち、

「最後の御奉公をしなければ。」とかたく心に誓い、宮市の天満宮にこもって、勝利の祈願をこめ、十七日間断食をしたこともある。

女の身ながら、勤皇の精神にもえた望東尼の一生は、なんというかがやかしいことであろう。平尾山荘は、今もなお人々の心をはげましているのである。

★ 第十 「岩谷九十老」
岩谷九十老は、石見国安濃郡川合村に生まれた。家は、世々地方指おりの豪農であったが、九十老は生れ落ちる時から母の乳が出なかったため、あるまずしい農家の里子として育てられた。

やや長じて家に帰ったのちの九十老は、すこぶるわんぱく者であった。けれども、父はさすがに九十老の非凡なことを知って別にこれをとがめず、かえって、この子こそよく岩谷家をつぐ者であるといって九十老を愛した。

父は九十老をしつけるのに、ひたすら勤労に服させる方法を取った。八歳の時、始めて村医について読み書きをまなばせたが、日課が終って家に帰ると、すぐ奉公人といっしょに田や畠で働き、夜はかならず草履一足、または縄二十尋をなわせるという風であった。

二十六歳で家をつぐと、川合村四組総年寄役にあげられ、また浜出・福山・鳥取三藩の御用達を命ぜられた。九十老の一生を通じての事業は、この時に始ったのである。

九十老の事業は、すこぶる多方面であった。中でも、この地方の人たちが今でもその徳をたたえているのは、飢饉救済のことである。

もともと、石見国は土地がやせ、五穀がゆたかでないから、一度天候がわるくなると、たちまち飢饉になった。九十老が家を受けついだ天保四年から、家をその子にゆずった明治二年まで、米や金をほどこし、米の安売をして、難儀な人をすくったことが数十回、世の人は九十老を呼んで、「米安様」とか、「米安大明神」とか、呼んだという。

天保七八年の大飢饉には、くらをからにして、難儀な人々をすくい、さらに福山藩の兵糧米五百俵の払いさげを受けて、やっと、その年の急場をすくうことができた。

明治二年の大凶作のおりには、私財二万貫文をなげ出して、自分の子といっしょに全力をつくして救済につとめた。

慶応二年のことであった。幕末維新の機はせまって人心も不安であったおりから、引き続いての不作になやんだ難民は、集って暴動を起し始めた。

この知らせを受けると、九十老は、村内の小作人を集めて深く暴挙をいましめ、もししいて、かの暴民に加わろうとするなら、まずこの岩谷家をこわしてから行けといった。けれども、だれ一人として、ことばをかえす者はない。村の人たちにわる気のないことを知った九十老は、当時郷人が生神として仰ぐ石見国の一の宮、物部神社の神職といっしょに暴民の群を待ち受けて、その前に立ちふさがった。九十老は、神職にさとさせたのち、声をはげまして、

「今日のところは、私たち二人にまかせてもらいたい。それとも、きみたちが暴挙を続けるなら、たとえ、きみたちの槍先にかかっても、私たちは、ここを動かない。二人を殺すか、その竹槍を捨てるか、二つに一つの返答をせよ。」

と、大声で叫んだ。

この気勢にのまれた暴民たちは、にわかに、しりごみし始めた。

「一の宮の生神様と米安大明神に出られては、おまかせするよりほかはない。」

だれいうとなく、こう返事をした。

こうした救済の反面に、九十老は、一日も勤倹と貯蓄を怠ったことがなかった。ほとんど毎年不作凶変にであった九十老は、少しのひまもむだにせず働いただけでなく、遊んでいる者を見てはきびしくこれをいましめ、金のない者には金を与え、職のない者には職を授けて、そのための出費とわずらわしさを少しもいとわなかった。しかも自分自身は非常な倹約家であった。九十老は、筆まめであり、ことに和歌をつくるのがたくみであったが、原稿はすべて帳面の余白または、ほごの裏にしたためた。

「紙を粗末にする者は、身代をたもつことができない。」

と、九十老は、つねに人をいましめていた。美衣美食をさけたことは、いうまでもない。

「それ財を積まんと欲せば、必ず貧を守れ。貧を守れば、よく倹約を行うを得、必ず富を致すを得べし。富を致すは、微を積み、大に至るを要とす。」

とは、九十老がその子に教えたことばであった。

★ 第十一 「松阪の一夜」
本居宣長は、伊勢の国松阪の人である。若いころから読書がすきで、将来学問を以て身を立てたいと、一心に勉強していた。

ある夏のなかば、宣長がかねて買いつけの古本屋へ行くと、主人はあいそうよく迎えて、

「どうも残念なことでした。あなたが、よくおあいになりたいといわれていた江戸の賀茂真淵先生が、先ほどお見えになりました。」

という。思いがけないことばに宣長は驚いて、

「先生が、どうしてこちらへ。」

「なんでも、山城・大和方面の御旅行がすんで、これから参宮をなさるのだそうです。あの新上屋におとまりになって、さっきお出かけの途中『何かめずらしい本はないか。』と、お寄りくださいました。」

「それは惜しいことをした。どうかしてお目にかかりたいものだが。」

「あとを追っておいでになったら、たいてい追いつけましょう。」

宣長は、大急ぎで真淵のようすを聞き取ってあとを追ったが、松阪の町のはずれまで行っても、それらしい人は見えない。次の宿の先まで行ってみたが、やはり追いつけなかった。宣長は力を落して、すごすごともどって来た。そうして新上屋の主人に万一お帰りにまたとまられることがあったら、すぐ知らせてもらいたいと頼んでおいた。

望みがかなって、宣長が真淵を新上屋の一室にたずねることができたのは、それから数日ののちであった。二人は、ほの暗い行灯のもとで対面した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろりっぱな著書もあって、天下に聞えた老大家。宣長はまだ三十歳余りで、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいている少壮の学者。年こそ違え、二人は同じ学問の道をたどっているのである。

だんだん話をしているうちに、真淵は宣長の学識の尋常でないことを知って、非常にたのもしく思った。話が古事記のことにおよぶと、宣長は、

「私は、かねがね古事記を研究したいと思っております。それについて、何か御注意くださることはございますまいか。」

「それは、よいところにお気づきでした、私も、実は早くから古事記を研究したい考えはあったのですが、それには万葉集を調べておくことが大切だと思って、その方の研究に取りかかったのです。ところが、いつのまにか年を取ってしまって、古事記に手をのばすことができなくなりました。あなたは、まだお若いから、しっかり努力なさったら、きっとこの研究を大成することができましょう。ただ、注意しなければならないのは、順序正しく進むということです。これは、学問の研究には特に必要ですから、まず土台を作って、それから一歩一歩高くのぼり、最後の目的に達するようになさい。」

夏の夜は、ふけやすい。家々の戸は、もう皆とざされている。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸をおどらせながら、ひっそりした町筋をわが家へ向かった。

そののち、宣長は絶えず文通して真淵の教えを受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加えたが、面会の機会は松坂の一夜以後とうとう来なかった。

宣長は真淵の志を受けつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、ついに古事記の研究を大成した。有名な古事記伝という大著述は、この研究の結果で、わが国の学問の上に不滅の光を放っている。

★ 第十三 「ダバオ開拓の父」
明治三十六年、二百五十人ばかりの一団を先頭に、日本人渡航者が相ついで、フィリピンへ向かった。

フィリピンの首都、マニラからおよそ三百キロ北の高い山の中に、バギオという町を新しく建設するため、その手始めとして、けわしい山坂を切りひらき、三十五キロという長い道路をつくろうとしたのである。

岩が落ちて来て、人がけがをする。できあがった道は、すぐにくずれる。そのため、フィリピン人も、アメリカ人も、支那人も、これまで果すことのできなかった難事業を、今はしとげてみせようというのである。

日本人は、しんぼう強くて、よく働いた。けれども、やっぱりこの仕事はなまやさしいことではない。何人も病気になったり、けが人もたくさんできた。その上、日本人がいちばん困ったのは、急に食物が変ったことである。このまま仕事を続けていたのでは、みんな病気になってしまうかも知れない。

このようすを知って、義侠心を起したのは、マニラの町に住んでいた太田恭三郎であった。

恭三郎は、早く明治三十四年からマニラへ渡って、そこで日本雑貨の輸入業をいとなんでいた。渡航した時は、まだ二十六の若者であったのである。

恭三郎は日本人渡航者たちの苦しみを見ては、じっとしていられず、フィリピン政府に相談して、これをすくう工夫をするとともに、自分でりょうしからいわしを買い求めて送ることにした。続いて梅干やたくあんづけなどをたくさんに送り届けた。

このことを聞いた日本人たちは、

「太田さんは、えらい人だ。太田さんは、ありがたい人だ。」

と、心から感謝して元気づき、一生けんめいに働いたので、まもなくフィリピンの島に、ベンゲット道路というりっぱな道路が、日本人の力でできあがったのである。

ところが、今度はその日本人たちに、仕事のなくなる時が来た。早くもこのようすを見た恭三郎は、またしてもこれをすくってやろうと思い立ち、

「ダバオこそ日本人の新しく働くところだ。」

こう考えて、行末を心配する日本人たちをはげましながら、まず百八十人だけをダバオに送り、マニラ麻を作らせることにした。

そのころ、ダバオは非常にさびしいところであった。恭三郎は、まだ二十九歳にしかなっていない。

三十八年には、二度ほど日本人をベンゲットからダバオへ送ったが、二度めの時には、自分もいっしょになってミンダナオ島のダバオに移り住むことにした。そうして、いままでの輸入業をやめて、太田興業という新しい会社をつくり、広大な畠に麻を栽培し始めたのである。

「日本人にマニラ麻がうまく作れるものか。」

と、ばかにしていたアメリカ人やスペイン人をしり目にかけて恭三郎の会社はだんだん大きくなって行った。それだけでなく、腕のある日本人たちは、引っぱりだこで、みんなに麻の作り方を教えるようにさえなった。

「ありがたい。これで日本人は、ダバオにおちつくことができる。」

恭三郎は、心から喜んだのである。恭三郎の一生の望みは、どうしたら日本人が、海外でよくさかえることができるか、ということであった。この望みに向かって、いつも全力をつくした。

ダバオにおちついてのちも、せっかく苦心した麻が暴風のため一夜で倒されてしまったことがある。その時恭三郎は、

「こんなことで、負けてなるものか。」

と、おおしい気持をふるい起して、日本人たちをはげましながら、一生けんめいになって復旧につとめた。また、かんばつの時に困らないよう、畠に水を引く大きな工事を始めたり、いつも先々のことを考えながら、こまかく気を使って、仕事をした。

恭三郎は日本人のために学校をつくったり、慰安の設備をしたりした。その上、フィリピン人も日本人にならって、しあわせになるようにという大きな心から、病院を建てたり、道を開いたり、港をつくったりした。大東亜戦争になって、フィリピンの島々から、アメリカ人を追い払うことのできる前、すでに恭三郎は、ダバオ開拓の父と仰がれる大きな事業をなしとげたのである。

ダバオのミンタルというところ、フィリピン群島第一の高峰アポを背にした緑深い山の上には、恭三郎のりっぱな記念碑が立っている。

★ 第十五 「高田屋嘉兵衛」
高田屋嘉兵衛は淡路の人で、子どもの時から船乗りとなって人にやとわれましたが、のち兵庫へ出て回漕業を始めました。そうして、まだあまり人の行かなかった北海道へまでも出かけ、内地の米や塩を向こうの鮭や昆布などと交易して家業につとめたので、家がしだいにゆたかになりました。

そのころ、ロシヤ人がしきりに千島に入り込むらしいので、幕府は警備の役人を出しました。更に、国後・択捉への航路を開こうと思って、特に熟練した船長をつのりましたが、北の方の海は寒気もきびしく、波風もはげしくて危険が多いので、だれ一人応ずる者がありません。嘉兵衛は深く決心して、進んでこの困難な仕事を引き受けました。

嘉兵衛は、まず国後島に渡りました。国後から択捉へ渡る海上はことに難所ですから、いろいろ苦心して潮流のようすを調べた結果、まわり路をすれば安全であることを見きわめ、決心して船を出しました。しばらくすると、霧が深くなって行先も見えなくなり、その上初めての航路なので、水夫らはしきりに危険を気づかいましたが、嘉兵衛は自分の考えどおりに船を進めて、無事に択捉島へ着きました。そうして十分島内を視察して引き返し、この航路の安全であることを報告しました。次の年にも、また幕府の命を受けて役人とともに択捉島へ渡り、ところどころに漁場を開いて土人に産業を授けました。

そののち、ロシヤ人が樺太・択捉に来て、掠奪をした事件が起りました。そこで幕府の役人が警戒をしていると、たまたまロシヤの軍艦が測量に来て、艦長ゴロブニンらが国後島に上陸したので、役人はこれを捕らえて函館へつれ去りました。軍艦に居残っていた副長リコルドは、いったん逃げ帰り、明くる年また国後島近海へ来て、艦長の安否をただすために、日本人を捕らえようと待ちかまえていました。そこへ嘉兵衛の船が通りかかったので、不意にこれをおそって嘉兵衛らを捕らえ、その軍艦につれて行きました。

艦上には、七十余名の兵士が、ものものしく着剣した銃をたずさえ、ずらりと並んでいました。嘉兵衛は、平気でその前を通って、副長に面会しました。副長は、このようすを見て、ただ人ではないと思い、大切にもてなしました。

捕らわれの身となって、とうとうカムチャッカへまでもつれて行かれた嘉兵衛は、少しも気を落さず、この機会にわが国とロシヤとの紛争を解こうと思って、まず館内の少年を相手にロシヤ語をまなび始めました。少し話ができるようになったころ、ある日、副長と語りあってみると、先にわが国に来て掠奪をしたのは、ロシヤの暴民のしわざであって、ロシヤ政府の指図ではなかったことがわかりました。そこで嘉兵衛は副長に、幕府に弁解をして、わびるがよい、とすすめました。

副長は、たいそう喜び、嘉兵衛を送って国後島へ来ました。けれども、すぐには嘉兵衛を上陸させないで、まずその手下の水夫だけを上陸させ、ゴロブニンのことについて、幕府の役人からたしかな返事をもらって来るようにと命じました。そうして、三日のうちにその返事がなければ、嘉兵衛をまたつれ帰るぞと申し送りしました。

嘉兵衛は、このうたがい深いやり方を大いにいきどおり、交渉ももはやこれまでと考えました。そこで、手下の者が涙ながらに船を去るのを見送ると、きっとなって副長に、

「自分が今日まで恥をしのんで生きて来たのは、両国の紛争を平和に解決しようと思ったためである。もし、仕返しをする気なら、いつでもできたのだ。無事に解決の見こみがつかないほどなら、なんでおめおめと、ふたたびつれて行かれるものか。」

と、決死の覚悟をしめしました。副長は、その勢にのまれて、嘉兵衛をも続いて上陸させました。嘉兵衛は、国後島の役人と相談の上、副長とともに函館へ行き、ここでロシヤ人と幕府の役人との間に立って、事をまとめました。その結果、ロシヤからは先の掠奪をあやまり、わが方からはゴロブニンらを返して、長い間もつれていた両国のあらそいも、やっと解決しました。

2006年12月24日更新