凛とした日本の旗印

★ 目 次 ★
人生の原風景
先祖先達に学ぶ
世の中は役割分担
『大和ごころ』
教育は家庭から
『國體の本義』
「修身書」の活用
ARNKAメール報
(拉致関連@チェンマイ)
AVの愉しみ
管理人の日記
クロ仲間放送局
海外旅行記
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★ 人生の原風景 ★

★ 自立への転機
 私は、いわゆる“団塊の世代”(昭和23年生)です。当然ながら、教育基本法に基づく学校教育を受けてきました。そんななか、福岡から大分へ転校した小学四年生の一年間だけは、父祖が経験したであろう『教育勅語』の世界に、身をおく機会に恵まれました。そして、その後の、人生における考え方や行動規範は、無意識のなかにも、このときの体験によって培われたものが、骨格になっている気がします。
 教育学者の定説では、10歳前後(小学四年生)に自立心が萌芽するそうです。

 幼児期は、依頼心が強く、臆病で泣き虫で甘えん坊でした。
 朝鮮戦争(当時は“朝鮮動乱”)のさなかにあって、九州福岡は、米軍(国連軍)の、後方基地になっていました。目の前を、武装した戦車部隊が通り過ぎ、戦闘機の大群が上空を飛び交う光景に、怖くなって、逃げ帰る日々でした。これが、精神的外傷となって、深層心理にこびりついてしまったのでしょう。

 「主権在民」「人権尊重」「不戦平和」を基軸とした、福岡の学校は、典型的な戦後民主教育でした。新築鉄筋校舎の快適な環境の中、学力をつける意味ではすすんでいました。将来の“金の卵”として、先生方から大切にされていることも感じました。反面、同級生に対しては、学力優先のあまり、仲間というより競争相手の意識が先行し、漠然とした孤独感に苛まれていました。

 小四の新学期、小二の妹と共に母親に連れられ、大分の転校先へはじめて登校します。そこで目にしたものは、なんとオンボロ木造校舎の正面に、二宮金次郎像が鎮座し、日の丸がはためく学校だったのです。

★ 神様が見守る学校
 担任の先生は、海軍出身(だったと思う)です。福岡での三年生担任も陸軍軍医出身でしたが、訓育方法がまるで違います。はじめのうちは、いかにも怖そうに見えたので、ガタガタと震えていました。それほど臆病な子供だったのです。

 最初に先生は、児童を前に、大意次のようなことを、大分弁で言われました。
(大分弁では理解不能と思われるので、標準語に翻訳して記す。)

 「学校には神様がいる。目には見えないが、どこにでも出かけていき、常にお前たちを見守っている。良いことをすれば褒美をくださり、悪いことをすれば懲らしめられる。一人で忙しいので、たまには見逃すかもしれん。でも心配するな。神様と先生は友達だから、なんでも知らせに来い。すぐ、神様に伝えてやる。」

 果たして教室では、神様が見ていたとしか思えない出来事が、次々に起こります。すっかり信じてしまい、親が留守のスキを見てこっそり神棚を開けてみました。「天照大神ナントカカントカ」と書かれたお札がそこにあるだけでしたが、神様は忙しいので、やっぱりどこかへ出かけているんだ、と妙に納得したものです。

 大人になれば、児童が告げ口した、とわかりますが、それを言ったらおしまいです。信仰心など育ちません。神とか仏の存在を説明できる人など、誰もいないのです。こころに宿る問題です。八百万の神も、信じない者の前には現れません。

★ 仲間意識の芽生え
 数日経った放課後、所在なげに同級生の勝ち抜き相撲を眺めていると、後ろから、妹を連れた同学年位の女の子が、「家に来ヨ」と懇願します。「どうしたとね。」と訊ねるや否や、いきなり手を引っぱられ、無理やり彼女の家に連れて行かれました。電球が切れて、灯りがつかなかったのです。電球の取替えは、どこの家庭でも、男の子の仕事でした。もちろん、朝飯前です。あっさり、作業は完了。神業でも見たかのような姉妹に、丁重な礼を言われて、意気揚々と引き上げました。

 翌日、前に出るよう先生に言われ、何を叱られるのかとしおれましたが、「みんな自分のことしかしないのに、転校生のお前が人助けしたのは偉い。」と逆に誉められました。おまけに、神様からのご褒美まで頂戴しました。「どうだ、嬉しかったか。」と言う先生の視線の先には、にっこりうなずく昨日の女の子の姿がありました。

 その後、「ついて来い」と一人職員室に呼ばれました。教科書(自分だけなかった)が届いたから持っていけ、と言うことでした。しかし、用件が済むと、あろうことか、上着のボタンを引きちぎられてしまいました。
「おお、取れよったな。お前、これ、自分で着けれるか。」
「お母さんに着けてもらうので、自分ではできません。」
「しょうがないなあ、じゃあ彼女に頼んでみろ。」

 みんなが見ている前で、しかも、助けてやったという思いのある女の子に、頭を下げるなど、激しい抵抗感がありました。気が弱いくせに、男尊女卑の差別意識だけは旺盛でした。それでも、怖い先生には逆らえず、恥を忍んで、言われたとおり、平身低頭して、お願いすると、鮮やかな手つきで、ボタンを着けてくれました。

 午後になって、今度は二人揃って前に出されました。
「いいか、よく聞け。彼は電球取替できて裁縫ができない。彼女は裁縫できて電球取替ができない。仲が悪かったら、一つしかできんで困るだろう。二人は助け合ったから、お互いにできないことでも困らなかった。もっと仲間が沢山いれば、何でもできるようになる。世の中には、困っている人が大勢いるんだ。みんなで仲良くして、自分にできることは、世のため、他人のために使え。いいな、わかったな。」

 『修身書』にでてくる、「毛利元就と三本の矢」と同じ理屈です。先生の訓話では、自分が登場するのですから、もっと身近で、とてもわかりやすかったです。自分の能力を必要とする人がこの世にいて、自分を助けてくれる人も目の前にいると実感し、自信と生き甲斐が持てるようになりました。同時に、同級生に対する仲間意識が芽生え、これまでの孤独感は、いっぺんに吹っ飛んでしまいました。

海軍先生と四年三組の仲間たち(大分縣護國神社)昭和33年3月
筆者はどこぞ?前列左から4人目、件の彼女は?勝手にご想像下さい。
自宅の裏山にあったので、恰好の遊び場でした。護國の英霊に勇気をいただいて感謝!
廣瀬武夫海軍中佐(大分県竹田市出身)もここに祀られていらっしゃいます。

★ 助太刀ありの授業
 授業は“助太刀あり”でした。算数の時間を例に挙げてみましょう。

 ある目的の児童が指される。解けないで困っていると、
「誰か助けちゃらんかい。みんな友達甲斐がないのう。」
と、先生の声がかかる。
「先生、僕に助太刀させてください。」と名乗り出て解答する。
正解が確認されると、なぜ助太刀したか理由を訊かれる。
「僕はいつも○○君(助太刀をうけた児童)に相撲の稽古をつけてもらってます。○○君は相撲の師匠です。師匠が困っているのに助けんと、僕は卑怯者になって神様の罰が当たると思いました。」
「そうか。○○いい弟子をもったのう。勉強がでけんでも心配するな。みんなあいつ(助太刀者)がやってくれるぞ。お前は相撲が強くなるよう励むだけでいいんじゃ。そしてみんなを鍛えちゃれ。」

 これが悪童になると、天文学的数字の難問が出題される。みんな知っているから桁数が増えるにつれてクスクス忍び笑いが漏れ、今日のいけにえは誰かと注目する。指された当人はもちろん、逆立ちしても解けない問題では助太刀しようもない。そして、やおら神様から聞いた悪事が先生によって暴露される。

「お前、ワシ(先生)より強いか?」
「先生の方が強いです。」
「そうか。じゃあワシをこづいちみい。(殴ってみろ)」
「ほら、怒らんけんこづいちみい。どうした?こづけんのか?」
しばらくあって
「お前昨日、△△(女子)をこづいたそうじゃのう。お前は△△より弱いんか?」
「僕の方が強いです。」
「女しかこづけん男を弱虫というんじゃ。立派なこの腕に感謝しちょるか。しちょらんじゃろう。だから肝心なときに腕が言うこと聞いてくれん。お前の母ちゃんは、弱い者を助けるために頑丈な腕に生んでくれたんじゃ。どうして女を護ってやれんのか。役に立たん腕はワシがへし折っちゃる。後から有難さがわかって泣いても知らん。一生、女にこづかれながら生きていけ。」と修羅場を経て、翌日母親に連れられた三角巾姿の悪童がみんなの前で土下座して謝らされることになる。

 毎日登校するのが楽しみでした。なぜかって、少年漫画本みたいな勧善懲悪の世界が、目の前で体現されるのですから、痛快でなかろうはずがありません。
 世の中は男社会でしたが、教室内では、むしろ女子のほうが大切にされました。というのも、弱者(女)を護るのが強者(男)の責任、と身に沁みるまで叩き込まれていたからです。昼休みの校庭陣取り合戦でも、屈強な男衆が先に行って遊び場を確保し、同級女子連に譲っていました。四年三組は、それぞれが自分の役割をわきまえており、仲間意識旺盛で、結束力は校内一でした。
 美しい話ではありませんか。
恥ずかしながら筆者の通信簿
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6月に事故欠席がありますが、汽車を止める大バカをやって、死に損ないました。このときから、精神的に生まれ変わっています。

★ 修行でつかめた「勇気」
 同級生に“長靴”(よく長靴を履いていたから)と渾名されるA君がいました。いつも校庭を眺めたり居眠りしたりで、授業に集中していないのは明らかでした。それでも先生は、「眠たかったら、寝てていい。けど、イビキかくなや。話がみんなに聞こえんけんのう。」と言って怒らないのが不思議でした。

 1学期が終わる頃、そのA君の家庭教師を仰せつかりました。そして、 「お前は、いいものをたくさん持っているが、勇気がない。勇気がないとすべてをなくしてしまう。授けてやりたいが、こればっかりは自分でつかむしかない。護國神社にお参りして、勇気の神様にお願いしてみろ。あいつ(A君)をよく見て毎日修行を積め。これが夏休みの宿題だ。」と言われました。護國神社はともかく、子供の自分には、いじめられっ子のA君と勇気の関係が謎でした。この話が出たのは、件の彼女がからかわれて泣いているのに、助けてやれないのを見て「お前、それでも男か?」と先生が心配したからです。自分には腕力がない(すなわち、自分も弱者)と卑屈になっていました。それだけに、強くなりたい願望は人一倍でした。

 夏休みに入り、勉強を教えるためA君の家を訪ねて仰天しました。馬小屋と見紛うあばら家だったからです。家業は今で言う古紙等の廃品回収業です。お母さんがお茶を出してくれたのですが、ネコの茶碗みたいで戸惑いました。勉強はまったくダメでした。妹から二年生用の教科書を借りてみたりもしましたが、無理でした。文字が読めないのです。人様を教えるのは難しいものです。

 A君をもっと知るため、一日だけ泊めてもらい、寝食を共にしました。夜には満天の星が輝き、ラジオもない家の周りからはカエルの鳴き声が聞こえ、ホタルが迷い込んでくるなど、いまも「人生の原風景」として記憶に残る一晩でした。
 翌日、彼はお父さんとリヤカーを引いて各家を回ります。一緒についていきました。訊くと毎日手伝っているそうです。先生が怒らなかった理由がわかりました。川へ釣りに行くと、意外にも名人でした。次々と釣り上げる彼に対し、こちらの棹には一尾もかかりません。その後、折に触れて逆に教えてもらい、少し上達しました。
 何の欲もなく、怒らず嘆かず、淡々と暮らすこの一家に感動を覚え、なのに世間では蔑まれていることに義憤も感じました。それに比べ、自分はなんと恵まれていることか。少しでも力になってあげたい、と思うようになりました。

 自宅に帰ると、母に「もう行きなさんな」と言われ、ムッときてはじめて親に反抗しました。「いいじゃないか、好きにさせれば。」という父は、常に味方でした。以後、せっせと古新聞を集め、一家に届けました。助けるには強くならなければ、と意を決して、他人が嫌がることも率先してやりました。数々の偉人伝を読みあさり、自分に何が足りないかを考え、もちろん、山にこもって剣術の稽古を積む武芸者の姿も真似てみました。A君への思い入れは日々深まり、一心同体化していきました。

 夏休みも終わって2学期のある日、無抵抗のA君が上級生(六年生)二人に襲われていました。なぜか自分の身が危ない気がしてカッとなり、ありったけの大声で「貴様ら、殴るならこのオレを殴れ」と割って入りました。あまりの怒声に敵は怯み、「憶えてろよ」とA君に捨てゼリフを残して、あたふたと逃げていきました。
 腕力がなくても、強敵(上級生)を負かしたのです。

 午後の授業中、女担任教師に付き添われた上級生が来ました。こちらに謝ろうとする二人は「相手が違うでしょ」と教師に嗜められ、罰悪そうにA君に謝罪しました。
 事情を知った先生は、「何だ、勇気があるじゃないか、どうして今まで隠してたんだ。お前はもう免許皆伝だな。」とたいそう喜んでくれました。

 人間は誰しも死ぬことを恐れます。それを克服するためには、命より大切なものがなければなりません。あればこそ生命を懸けて護ろうとし、いざというときに不思議な力が発揮できるのです。これが勇気だ、と理解しています。

小六卒業文集「荒波」より(記念の落書き)
男はこのように多くが「軍国少年」でした。これって、戦後(昭和35年)ですよ。
男の子は強いものに憧れるんです。今の子供なら、どんな落書きになるんでしょうか。「落書きはいけません」と先生に言われて、そもそも書かない?

★ 海軍先生主要語録
 先生の主な語録を列挙してみましょう。

  ① 学校は、世の中に出たとき、困らんようにするための道場だ。
   今のうちに揉まれておけ。
  ② お天道様に感謝してるか。空気に感謝してるか。
   御まんまに感謝してるか。
  ③ 親に頼るな。自分で考え、自分でしろ。
   父ちゃん母ちゃんはいつまでもおらんぞ。
  ④ したいことをしろ。したくないことはするな。
  ⑤ 子供は遊ぶことが仕事、思いっきり遊べ。
   勉強はしたくなったときだけすればいい。
  ⑥ 一人で生きていけるのが一番強い人間だ。
   しかし、人間は一人では絶対生きていけん。
  ⑦ 子供たちでできることは子供たち同士でしろ。
   これは、大人になる訓練だ。
  ⑧ 自分でできることを一つでも増やせ。
   自分でできんことは他人の助けがいる。
   いつまでも助けられて生きるか。助けを借りないで生きるか。
   どっちがいいかよく考えてみろ。
  ⑨ 教えてもらうなどと甘ったれるな。
   自分以外がみんな敵だったらどうする。敵が教えてくれるか?
   自分で考え知恵を絞り出すしかないだろう。
  ⑩ 自分の能力は世のため他人のために使え。
   自分のためならいつでもできる。


 最も強く印象に残っているのは、⑥番と⑧番の言葉です。「人間は一人では生きていけない」ことを自覚することが人生の原点だと思います。すべて自分でできる全知全能人間などいませんから、常に自然や先人を含めた見知らぬ人々の恩恵を受けて生きているわけです。そこから感謝の気持ちが生まれ、自分も世のため他人のために役立ちたいと考えるようになるのではないでしょうか。

東大分小(昭和36年秋の運動会)
ずいぶん田舎だったんですねえ。木造校舎はすでになくなっています。本棟(コの字型の要)のみ木造残る。
筆者(中二)は卒業済みで、妹(小六)と弟(小四)が通っていました。護國神社は左手の山上です。(見えない)

現在の東大分小学校周辺の様子←クリックするとご覧になれます。

右上の「航空写真」をクリックすると写真モードになります。写真上部が北で、下部が南になります。昭和36年の白黒写真は、北北東上空から南南西を俯瞰して撮影されたものです。見事に周辺の田圃が消えています。


★ わが母校(関連リンク)
・昭和29年4月~昭和32年3月 福岡市立花畑小学校
  http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/elhanaha/

・昭和32年4月~昭和35年3月 大分市立東大分小学校
  http://oit-higasioita-e.oita-ed.jp/

・昭和35年4月~昭和37年7月 大分市立城東中学校
  http://oit-joutou-j.oita-ed.jp/

・昭和37年9月~昭和38年3月 鎌ヶ谷町立鎌ヶ谷中学校
  http://www.kamagaya.ed.jp/kamatyu/

・昭和38年4月~昭和41年3月 千葉県立船橋高等学校
  http://www.chiba-c.ed.jp/funako/

・昭和41年4月~昭和45年3月 早稲田大学教育学部
  http://www.waseda.jp/top/index-j.html

2006年11月6日更新